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フラストレーションという負のエネルギーは、マイナスのものばかりを呼び集める。そして最後に小さな悲劇として結晶する

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 二、三年前の夏、日本がいちばん暑いころ、僕はラッセル・バンクスの『コンティネンタル・ドリフト』(邦訳は早川書房『大陸漂流』)を読んだ。一週間ほどにわたって真夏のあちこちを移動しながら、その先々で読んでいった。読み終わったのは宵山の京都の、冷房のきいたホテルの部屋でだった。ペーパーバックで四百二十ページあった。面白ければ読みごたえ充分の量だ。小さな活字で物語がびっしりと詰めこんであった。そしてその物語は、素晴らしく面白いものだった。僕は夢中で読んだ。

 主人公はニューハンプシャーに住んでいる三十歳の白人男性だ。結婚していて子供がふたりいる。家庭用の暖房ボイラーを修理する店で彼は働いている。このまま働き続けていけば、中年をとおり過ぎるころには、彼も一軒の店を持つようになることが出来るかもしれない。しかしそのような自分の現在と将来に関して、彼はたいへんな閉塞感とフラストレーションを覚えている。

 なにかもっと夢のある、前向きの展望を持つことの出来るような生活のしかたはないものか、と彼は思い悩む。悩みはじめると、現状のすべてが深刻な不満の種となっていく。フラストレーションはつのる。彼には弟がいる。その弟はフロリダで商売をしていて、いまのところ成功している。こっちへ出て来て商売を手伝ってくれないかと言われている彼は、フロリダへ移る決意をする。ニュー・イングランドでの生活を引き払い、彼は家族とともにフロリダへと生活の場所を変える。

 ここから彼の転変がスタートする。もっと積極的な希望の抱けるような生活のしかたはないものか、という彼の気持ちは、現状に対する強烈で破壊的なフラストレーションという、マイナスのエネルギーによって支えられている。そしてそのマイナスのエネルギーが、彼のそれ以後のほんの二、三年しか続かない人生の、原動力となっていく。

 彼の人生の転変は、彼というひとりの人が切り裂いてみせる、いまのアメリカにおける人の生きかたの様子の、ひとつのきわめて興味深い断面でもある。骨太にリアリスティックな、正確で非情な書きかたは、どのひとつもすべて完璧な正解であるディテールを見事に積み上げながら、読む人を強力に牽引していく。

 主人公が自分のものとして持っているマイナスのエネルギーは、いまのアメリカのいたるところに転がっているマイナスのものばかりを、引き寄せてしまう。マイナスがマイナスを呼び、最後に負のエネルギーは大きくふくれ上がり、破局を招く。

 この彼とは別に、もうひとり、主人公が設定されている。ハイチでもはや落ちるところがないほどにひどい生活をしている、ひとりの若い女性だ。現在の自分の生活よりも、ほんのすこしだけでいいからましな生活をしたいと願う彼女は、まだ幼い息子とふたりで、相場の現金を払ってアメリカへの不法入国船に乗る。

 途中で息子を失うが、彼女はなんとかフロリダに到達する。そしてそこにあるハイチ人地区にもぐりこみ、ハイチにいたときとたいして差のない生活を送る。この彼女と主人公の彼とのあいだには、およそ結びつく共通点はないのだが、最後になってふたりの軌跡は悲劇的に交差する。小さな、ほんとに取るに足らないような悲劇として、彼は短い人生を終える。小さな取るに足らないひとつの悲劇が、存分なスケール感のなかで描ききってある。あらゆるディテールが正確であり、しかも正解そのものだ。彼が身をもって切り出したアメリカの断面は、手が切れそうなほどに鋭く、鮮明だ。これだけの小説はめったにあるものではない、と僕は確信している。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 1995年

今日の1冊➡︎片岡義男図書目録01|大陸漂流|早川書房|1991年
books_continental_drift

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1995年 『本を読む人』 『水平線のファイル・ボックス 読書編』 アメリカ エッセイ・コレクション 書評 本|『コンティネンタル・ドリフト』 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』 著者|ラッセル・バンクス
2016年10月5日 05:30
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