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【特集】僕の戦後、あなたの戦後

【特集】僕の戦後、あなたの戦後

2022年8月4日 00:00

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 2022年は太平洋戦争終結から77年目の年です。私たちは「戦後77年」と表現していますが、世界に目を向ければ戦後どころかまさに戦時下の国があることはご承知の通りです。そして77年前と大きく異なるのは、私たちはグローバル化した社会の真っ只中に生きているという点です。日本から遥か遠く離れた国の出来事であっても、それは日本人の生活に直接・間接的に影響があり、現在進行形で私たちも体験しています。そう捉え直すと「戦後」は過去ではなく未来のものであり、私やあなたにとっても決して無縁のものではないと思えてきませんか? そしてもうひとつ、77年という長さの時間は、明治維新から終戦までの時間と同じなのだそうです。その歴史を比較すると、不思議なことに多くの類似点があることに気づきます。私たちは再び同じ道を辿ることになるのでしょうか。それとも……。


 片岡義男.comでは8月9日、12日の作品公開をお休みさせて頂きます。ぜひその間にこちらでご紹介するエッセイをじっくりとお読み頂き、片岡義男の発するメッセージに耳を傾けてみてください。


 そして、あなたの戦後に関する体験や伝聞、あなたの考える戦争や戦後のことなども、ぜひ聞かせてください。こちらのお問い合わせフォームから、お問い合わせ内容を「その他」、タイトルを「わたしの戦後」として、あなたの戦後についての思い出やご意見などなんでもお寄せください。お待ちしております!


1)『僕の戦後』

片岡義男にとって、戦中が戦後に変わったのは1945年8月6日の朝、疎開先の山口県岩国市内で友達の家から自宅まで歩いていく途中に「奇妙な黄色い光」を浴びた瞬間だったと言います。戦前から戦後にかけての約6年、当時の岩国での片岡少年の暮らしぶりはどのようなものだったのでしょうか。そして、そこで学んだこととは。

『ひらく』第7号(2022年6月15日) 特集「日本人の戦後77年」より


2)『白い縫いぐるみの兎』

1945年2月、5歳だった片岡義男は両親とともに、東京から祖父のいる山口県岩国市へと汽車で旅をします。それは日本の敗色濃厚な中で空襲から逃れるための疎開でした。後年、その列車旅で乗り換えもなくスムーズに旅を終えられた背景には、若い乳母の懸命な働きがあったことを、母から聞かされます。

『ピーナツ・バターで始める朝』より



3)『少年食物誌』

少年時代を疎開先の瀬戸内海沿いの町で過ごした片岡少年。手漕ぎの小さな漁船に乗せてもらい、沖に仕掛けてあった網にかかった魚やタコ、ウニなどを採る様子を間近に見せてもらったこと、陸に上がってからそれらを刺身や塩焼きなどで食べたことなどが、今もものを食べることの原体験として残っていると言います。その一方で、アメリカのスーパーの棚に並んでいた、加工されパッケージされた食品群もまた、食べものの原体験の重要な一部分だったと言います。

『アップル・サイダーと彼女』より


4)『爆弾の穴について思う』

終戦前後の時期を山口県岩国市で過ごした片岡義男が空襲というものを知ったのは、戦後祖父の所有する畑にあいていた穴を見てからでした。穴はすっかり池になっており、「中には入るな」という注意も受けていたそうです。昭和二十五、六年に米軍によって撮影された航空写真を見ると、岩国駅の周囲の畑の中には、黒い爆弾の穴がまだいくつも残っているのがわかります。

『自分と自分以外──戦後60年と今』より


5)『拡大にまきこまれた』

江戸の終わり、日本は開国し西欧から入って来た大量の技術や制度を受け入れます。日本はそれらを取り込み、明治、大正、昭和と国を挙げて無理に無理を重ね、その結果として外への軍事拡大というひとつの方向にむけて突き進んでいきます。戦後、その力は経済活動へと向かいますが、定められた一つの方向から外れるものは排除されるという、国家の運営システムは戦前からずっと変わらないままでした。その結果、たどりついた人々のあり方とは……?

『日本語で生きるとは』より


6)『民主主義は買えなかった』

1945年8月28日、敗戦国日本に占領軍としてアメリカ軍の先遣部隊がやってきます。日本は統治する側の米軍を通してアメリカという異文化との接触を体験することになりますが、それは歴史上初めての出来事でした。食品から映画、家電まで日常生活のいたるところに入り込んできたものの中でも、特に「民主主義」は常に多大な努力を社会の隅々にまで行き渡らせなければならないやっかいなシステムです。しかし日本ではどうも受け止め方が違っていたようです。

『アール・グレイから始まる日』より


7)『第九条』

小学一年生の時、片岡義男少年は先生から「天皇は日本の国のシンボルです」と教えられ、「シンボル」よりも「象徴」の方がいい、と思ったそうです。長じて法学部に進んだ彼は、日本国憲法そのものよりも、その成立プロセスに興味を持ったと言います。このエッセイでは1991年の湾岸戦争を契機に湧き上がった「憲法第九条」をめぐる論議について書かれていますが、海外情勢を理由として憲法改正論議の必要性が叫ばれている今、ぜひ日本国憲法第九条の条文を手元に置いた上で読んでみてください。

『日本語の外へ』第1部「アメリカ」より


8)『真の文化とは時間の蓄積だ』

日本は戦後から現在まで、ひたすら経済活動だけを追求してきました。しかしそこには自分にとって不利な話でも粘り抜いて継続させるという「外交」が抜けており、自分たちの価値観を外に向けて正確に伝えるための言葉、そしてその言葉を使うトレーニングを、戦後の日本はずっと怠ってきた、と片岡義男はいいます。

『日本語の外へ』第2部 日本語「ペシミズムを越えようとしていいのか」より


9)『母国語の性能と戦後の日本』

母国語(言葉)はこの複雑な世界に手掛かりを見つけ、その認識の方向を決めるための道具です。そしてその目的は最終的には論理や正義などにとって唯一の公式の場やルールを作り出すもののはずです。しかし日本語の場合は、そうしたものが戦後から現在まで、いかに皆無に近い状態であったか。特にこの数年、私たちはあらゆる場でそのことを見せられ続けてきたのではないでしょうか。

『日本語の外へ』第2部 日本語「ペシミズムを越えようとしていいのか」より


10)『自分の国の守りかた』

世界というものを認識するとき、アメリカの人たちが最も得意とする思考方法は、全体を「自分たち」と「奴ら」との二つに分ける単純な二分法だと言われます。敵が想定されないことには、自らのアイデンティティを形成することも維持することもできない……。これはアメリカに限ったことではないでしょう。その発生源までたどっていった時、そこに見えてくるものとは? そして世界が本来向かうべき方向とは?

『影の外に出る〜日本、アメリカ、戦後の分岐点』より


11)『不況はなぜ終わらないか』

今、日本では食料品などの値上げが続いており、この秋以降もこの動きがは続くと言われています。急激な円安と世界的な原材料の高騰が主な原因とされていますが、一方で日本人の平均賃金はこの30年ほとんど変わっていません。片岡義男は「敗戦からの経済復興から現在まで、日本の社会は供給の側の都合だけで動いてきた。人々はただ次々に受けとめれば、それでよかった。その半世紀は終わった」といいつつ、しかし戦後の日本というシステム全体の作り直しと入れ替えは1970年代にやっておくべきだった、と書いています。

『自分と自分以外──戦後60年と今』より


12)『強烈なキャラクターです』

日本という国の運営の根幹で長く続いて来たひとつの強力な方針とは、人々の生きかたを国家が規定してきたことであり、それは太平洋戦争で国が敗れたにも関わらず、今も変わっていないようです。戦後は「経済戦争」という名の戦争の元に運営され、多少の成果はあったにせよ、果たしてその中に未来を見据えたグランド・デザインともいうべきものはあったのでしょうか。

『自分と自分以外──戦後60年と今』より


13)『元帥とイタリア風のスパゲッティ

1945年(昭和20年)8月30日、日本に降り立った連合軍の総司令官、ダグラス・マッカーサー元帥とその一行は、仮のGHQが置かれた横浜のホテルニューグランドに3日間逗留します。そこで当時の料理長がスパゲッティとトマトソースを使って作ったのが日本初の「スパゲッティ・ナポリタン」です。作り方だけでなく、命名までが戦後すぐの日本でなされたという誕生秘話には、どこにも文句のつけようがありません。

『ナポリへの道』より


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『ヒロシマ・ナガサキのまえにーオッペンハイマーと原子爆弾ー』