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写真エッセイ『東京ポジティヴ』より6作品を公開

写真エッセイ『東京ポジティヴ』(『日本カメラ』/2007年)より6作品を本日公開いたしました。

 写真機を片手に景色を見ているときの僕は、現実そのものとして見ると同時に、映画撮影用のセットのような架空のものとしても見ている。そのときの僕の頭のなかに占める現実と虚構の割合は、半々くらいだ。この路地を映画に使ったらどんなだろうか、と僕は想像する。現実の中にしか存在しない景色を、僕は架空のものとして写真に撮る。なぜだろうか。自問するまでもない。架空や虚構などは、要するに物語なのだ。現実から触発されて想像力のなかに宿る、もうひとつの現実。それを僕は見ようとしているからだ。物語の誘惑に、ほとんど常に負ける僕。こんなふうに言うのも面白い。

(『日本カメラ』2007年7月号掲載)

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 人生とは結局のところ道順なのだろうか。どこへ向かう道順ですかと訊かれたら、おしまいへと向かう道順でしょうとしか答えようはない。その途中で右に曲がったり左へ折れたり、右往左往する日々を一本の線として虚空に描き出すと、それはまぎれもなく道順だ。高校、大学、会社、そして定年、還暦、その先にあるのは碁会所、温泉、民謡酒場のどれだろう。こけつまろびつのあげくの、おっつかっつでしかない人生の道順。

(『日本カメラ』2007年8月号掲載)

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 水着姿あるいは浴衣姿で生ビールを持った女性が写ったポスター。写真に撮ったのは5年以上も前だ。いまこれを見直して、僕には閃くものがあった。これは小説だ、という閃きだ。まずとにかくいちばんおおまかに言って、この光景のなかには小説がある。この写真はいくつもの物語だ。僕はその小説を、ぜひとも書きたいと思う。主人公の女性が水着姿となる、浴衣を身にまとう、といった具体的な状況は、必ずしも必要ではない。水着も浴衣も、そのものだけで物語のなかに登場してもいいのだし、水着姿の写真でもよければ、浴衣は洗濯して干してあるそれでもいい。

(『日本カメラ』2007年9月号掲載)

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 2007年8月12日、土曜日午後の東京・神保町。靖国通りに面した書店はほとんどが休業日で、シャッターを降ろしている。歴史も文化も終わった跡地のそこかしこに、今も少しだけ残る残骸を、落ち穂拾いのように一眼レフで拾って歩く。高層ビルディングの壁面が、巨大な衝立のように画面の奥を全面的にふさいでいる。その様子は効率の追求という方針の象徴のようであり、その手前にある景色は、効率とはほぼ無関係なままに存在している。ふたつの極端に異なった価値がひとつの画面のなかにあるとき、それを写真に撮ると記念写真になるのではないか。

(『日本カメラ』2007年10月号掲載)

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 異常な残暑の9月、ふと視線を向けた脇道で魅力的な建物が陽光を静かに受け止めていた。定休日の床屋だ。築50年にはなるだろうか。木造モルタル平屋建ての看板建築(店舗併用住宅)だ。いまでもそうだが、新築された当時は特に、ほどよく洒落たじつに美しい建物だったに違いない。僕は夢中でこの建物を写真に撮った。子供の頃の自分が、そのずっと前方になんとなく仮想や期待をした、大人になってからの自分というものを、この景色は僕の記憶のなかでいまも象徴しているのか、と僕は思ってみる。

(『日本カメラ』2007年11月号掲載)

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 小田急線の南新宿という駅で電車を降り、商店街を抜けて表の道路まで上がってから、その道を右へ曲がる。そのまましばらく直進すると、白紙堂書店と書いてある看板が目の前に見えてくる。白紙堂書店という名称は、これまでに日本に存在した星の数ほどの書店の名前として、一頭どころではなくはるかに遠くまで、群を抜いたものではないか、と僕は心の底から思う。白紙堂書店という言葉が、僕の心の底に突き刺さる。この看板を最初に目にとめたときすでに、書店は営業を停止していたようだ。いまとなってはその思いは写真へと転換していくほかない。

(『日本カメラ』2007年12月号掲載)

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2022年12月6日 00:00 | 電子化計画

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