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評論『日本語の外へ』より3作品を公開

『日本語の外へ』(底本:角川文庫/2003年)より3作品を本日公開いたしました。

日本語には質的に英語のIとYOUに等しい言葉はない。つまり確立され独立した主体としての個人を意味する言葉がない。少なくとも今の日本はそういう人のいない文化や社会だ。日本語世界での言語活動は、自分にとっての利害調整を中心にした対人関係に常に則っている。だからその場その場で自分と他者の呼び方が、さまざまに変化する。日本語の世界では言葉は何よりもまず主観だ。そして主観に奉仕し客観を目指さない。その結果、人間というものに関するさまざまな理解が深まらない社会が出来上がった。日本人は、言葉などどうでもいいと思っている。言葉よりも現実的結果だ。それこそが戦後50年間、日本が追求してきたことに他ならない。

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どの外国語も同じだが、学ぶのはやっかいだ。自在に使いこなせるようになるまでには大変な苦労を必要とする。英語の場合は正用法の枠をきちんとくぐり抜ければ正しい英語があり、どのようなことにも普遍的に使うことができる。それに対して日本語はどうか。正しい日本語、という言葉があるが、その実体がどのようなものなのか、誰にも答えられない。ひとそれぞれの対人関係のなかで、その質や内容を見きわめつつ使って支障をきたさない言葉、そうした言葉を、誰もが日本のなかでいつのまにか自然に身につけていくのだ、と人々は確信している。

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日本では江戸時代に、政治と経済を完全にカヴァーする高度な社会管理システムが存在していた。だからこそ、幕末に西欧と出会ったときに、技術はいくらでも呑み込むことができたが、西欧の自由や民主といった理念は回避した。技術は国内で出来上がっていたシステムの中に移植され、純粋自己流ともいうべきやり方がスタートした。同時に入ってきた資本主義は、自由や民主なしの、おそろしいまでに純粋なかたちで日本に導入され、戦後まで持続することになった。そして戦後、日本は自由や民主をアメリカから配給されるが、基本は何も変わらなかった。

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2022年8月23日 00:00 | 電子化計画

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