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連載短編『撮られた人の行方』より6作品を公開!

雑誌『MEN'S EX』(世界文化社)に1994年5月号から連載の短編『撮られた人の行方』より6作品を本日公開いたしました。

この『撮られた人の行方』という物語は、全十八回で雑誌に連載されました。連載スタートは1994年ですから、この『太腿への同時代的共感』で登場するヌード雑誌は、70年代前半のものになるのでしょう。だから、掲載されている写真は白黒写真が中心で、しかも編集者の部屋で撮影されたような低予算のものです。その時代のその手の雑誌はさすがに見たことが無いのですが、ここで語られる「雑誌にはその時の時代が保存されている」という考えは、ある程度以上の年代の方にはとても分かりやすい概念だと思います。最近は、そういった時代の空気のようなものを色濃く残すグラビアは少なくなったというより、写真に残るような濃い時代の空気自体が無くなってしまったように思えます。だからこそ今、人は「同時代的共感」をより強く求めているような気がします。

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『撮られた人の行方』の第一回『太腿への同時代的共感』に登場したのは70年代のチープなヌード雑誌でしたが、今回、「美人尾行論序説」が連載されているのは、90年代のグラビア誌の中心とも言える、いわゆる写真投稿雑誌です。作られた欲望のハケ口としてのヌード雑誌ではなく、身近にいる(と読者が思える)、リアルな距離感の女性の写真が人気だった時代。ひたすら女性の後姿を撮り続ける杉浦正孝という人物の造形のリアリティに、あの時代を知っている方はドキドキするのではないでしょうか。前回と今回が対になることで、男性の欲望を商売のタネにする写真の役割の変化と、撮られる側の変化が鮮やかに提示されます。ノンフィクション作家が見ているという設定で書くフィクションという構造が見事に生きた構成です。

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『撮られた人の行方』第三回は、ノンフィクション作家としての高倉健二のインタビューシーンが物語のほぼ全部と言ってよい作品です。高倉の目と耳を通して、私たちは作家デビューに向けて活動する村崎久美子を知り、彼女の取材対象であり、いずれ高倉の取材対象にもなるであろう、元美人秘書のボディビルダーについての話を聞きます。そして、その全体が片岡義男の短編小説であり、それは『撮られた人の行方』という大きな作品の一部でもある訳です。この何重にも重なった入れ子構造が、この物語をとても魅力的なものにしています。私たちはそれを、様々なレイヤーから覗き込むようにして見ることが出来るからです。その「見る」行為自体も「撮られた人」についての物語という枠に組み込まれる仕掛けがたまりません。

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インタビューでは、相手を怒らせてでも本音を引き出せとか、いかに話を引き出すか、と言ったコツのようなものが語られることがあります。しかし実際のところ、これらは、何を聞きたいのか、何について話してもらいたいのかが分からないインタビュアー向きの話で、聞きたいことがハッキリしていれば、それをどう聞けば話してもらえるかを考えれば良いだけです。この『金髪のジェニー』の中で、ノンフィクション作家の高倉は、相手の話に熱を持たせるためにちょっとした仕掛けをしますが、それが出来るのは、相手の何を聞きたいのかが分かっているからです。様々な人に話を聞くことが、そのまま小説になっている、この『撮られた人の行方』シリーズは、そんなインタビュー術の指南書でもあるようです。

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今回の、連作『撮られた人の行方』に登場する「撮られた人」は、撮る人でもあります。今や、当たり前になった「自撮り」ですが、セルフポートレートと言えば、写真の世界では由緒ある大きなジャンルであり、イポリット・バヤールによる1840年の作品『溺死者に扮したセルフポートレート」は、最初期の名作として有名です。セルフヌードが写真作品として表に出てくるのは1990年代の初頭、ヴィヴィアン・サッセンや長島有里枝などがその先駆けとなるので、1994年に書かれたこの短編『セルフ・ヌードの勧め」は、そのタイトル通り、セルフ・ヌード入門的な物語とも言えそうです。その未知のジャンルに想像を膨らませ、フィクションを作っていく二人の男性作家の会話が、なんとも際どく微笑ましいのは、そういう時代背景もあるのでしょう。

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『撮られた人の行方』を巡る物語の中で、ノンフィクション作家の高倉健二は、自分が書くべき本の内容を具体化していきます。そこで選ばれた「性的な文脈の中で使用される写真」というテーマは、現在、日本画の世界で語られている美人画と人物画の区分け論争とリンクしているようです。つまり、それくらい普遍的なテーマであり、その中でセルフヌードや女性の部屋といった写真までも、その中に取り込んで、しかもフィクションとして構成する片岡義男の時代を見通す目に驚きます。94年は美人画がほぼ絶滅していた時期で、グラビアが迷走する時代。その中にあって、ファインダーの向こうを超えて、撮られた人の行方へ視線を届かせる試みのようなこの小説は、事情があるにせよ、単行本になっていないのが不思議なほどの大傑作だと思うのです。

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2022年4月1日 00:00 | 電子化計画

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