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トリップ・カウンター・ブルースだってよ

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  1

 エンジンをかけるため、路面が硬くて平坦なところへ、バイクを押し出していく。サイドスタンドをあげたとたんに、バイクの重さを全身に感じる。すさまじい重さだ。

 かすかなダウングレードを、うしろむきに降りていく。生ゴムのグリップをとおして、ハンドル・バーを握った両手に、バイクの重さのすべてを受けとめる。うれしいような、こわいような、不思議な気持だ。おそらく、こわいのだろう。

 フロント・ブレーキでとめて切りかえすとき、燃料タンクの中のガソリンが、音をたてる。小さな波がひとつ砕けたような、かわいい、涼しい音だ。

 またがると、いつでも、ダブルクレードルの鋼管フレームがカーブで発揮する強烈なくせを、両脚に感じる。キックするときには、七十四ミリの内径を持つふたつのピストンにシリンダーの内部でかかる力を、右脚をとおして肩のあたりにまで、感じることができる。

 まわりはじめたエンジンは、バイクのあらゆる部分に、命を吹きこむ。メカニズムのいろんな部分が、心の中で見えてくる。クランク・シャフトにいまこの瞬間かかっているすさまじい力を想像すると、なぜだか厳粛な気持にすらなる。

 コンロッドに浮き出させてある MADE IN JAPAN の刻印を、ふと思い出す。右側の吸気口ッカー・アームがすりへって変形したとき、とりかえたロッカー・アームのプッシュロッドを受ける部分をつくづく見てしまった。クロームモリブデンでつくられていて、プッシュロッドを受ける部分は硬化加工がされていた。指さきで何度もさわってみた。

 プッシュロッドは、かわいらしかった。両端にスティールの小さな球が溶接されていて、その可憐さといったらない。

 いま自分がまたがっているバイクの、タフなフレームに抱かれて八百回転のアイドリングをしているエンジンを、じっと見る。ピストンが上下して、クランク・シャフトをまわしている。クランク・シャフト・オピニオンからアイドル・ギアをへて、カム・ギアがカム・シャフトをまわしている。タペットが受けたカムの動きを、おとぎ話の妖精が持つ魔法の棒のようなあのプッシュロッドが、いまロッカーアームに伝えている。

 ピストンがかすかな楕円型だということをたしかめたのは、いつのことだっただろう。サークリップをクランクケースの中に落としてしまったのは、あのときだったろうか。手伝ってくれていた年上の友人が、絶望的な顔でクランクケースの中を見ていた。

 ピストン・リングをはずすときの、指さきに感じる感触を、いつでも指さきに思いだす。新品のオイルリングを、取りつけるまえに折ってしまった。じつにあっけなく、オイルリングは折れた。あれとおなじオイルリングが、いま、ふたつのシリンダー壁面のオイルを、確実にかき落としてくれている。

 左右のマフラーから、両手の掌に排気を受けてみる。温度と圧力が、機械の息吹きだ。いつの秋だったか、信濃の峠道での小休止のあと、路面いっぱいに広がっていたかわいた落葉を排気で吹きとばしつつエンジンを始動させた、若い長距離ライダーを思い出す。

  2

 走っているときのスピードによって、自分をとりまいている光景の見え方がちがってくるようだ。

 スピードをあげて走ると、自分から近距離にあるものが流れて飛びはじめ、遠景の印象が心にきざまれてくる。スピードをおさえると、近くのものがよく目に入るようになる。

 もちろん、どんなスピードでも、目に入るものに対しては、気を配っている。だから、たとえば畑のまんなかのバイパスを走っていくとき、畑に出て作業をしている農婦がふと顔をあげてこっちを見たときの、手ぬぐいの下の陽に焼けた顔の表情と、そのずっとむこう、旧道に面して建っているガス・ステーションの、回転する看板のゆっくりした回転とを、同時に鮮明に記憶していたりする。

 夕暮れの自動車専用道路、右まわりの大きなカーブ。凍結防止の細い何本もの溝を全身に感じながら、リーン・アウトで抜けていく。近くに車はいない。中央分離帯のむこうを、回送の観光バスが走っていく。運転手が、そばにすわっているバス・ガイドと話をしながら笑っている。バイクは、思ったとおりのラインでカーブを抜けていく。だが、こわさをふりきれていないのだろう。尻がシートに残っている。限界だ。

 夜の街道。照明灯はない。暗い畑や野原が両側に広がる。街道ぞいの民家や商店は、とっくに明かりを消してしまっている。

 むこうの闇から、ヘッドライトがふたつ、走ってくる。緑色のルーフ・ライトが三つならんで見える。長距離のトラックだ。対向車線を、トラックの黒い巨体がせまってくる。

 すれちがう瞬間に見たものを、おそらくながいあいだ、忘れないだろう。トラックの暗い運転台が、ぱっと黄色く明るくなった。唇にくわえた煙草に火をつけるため、運転手はライターをともしたのだ。

 運転台を明るくしている左手のライターの火に、彼は顔を伏せ、煙草に火をつけていた。前方の夜の街道を、上目づかいで、不敵に見ながら。

 すれちがっておたがいに遠く離れつつ、ライターがぱっとともった瞬間の運転台内部の雰囲気が、自分のまわりにも、ほんの一瞬あった。

 火山の外輪の峰づたいにのびる夜のターンパイク。カーブのつづく登り坂をその頂点までのぼりきったとき、赤い月が見えた。遠い盆地には、無数の星をさらにこまかく砕いて敷きつめたように、町の灯があった。そのむこうに山なみが黒くつづき、赤い月はその山なみのむこうから、いま、昇ってくるところだった。

 赤く静かな、そしてなぜか不気味な月の丸いてっぺんが、黒い山のむこうから顔を出してくる。昇ってくるスピードが、はっきりと感じられた。車の流れのとだえたターンパイクを走ってくるバイクのスピードに、昇る赤い月のスピードは、同調していた。自分はいまあの月にたぐり寄せられながら走っているのだという錯覚が、楽しい。

 走るバイクは、想像を絶して豊かなイメージの奔流を、真正面から受けとめる。そのイメージの河に、風や振動、それに路面のフィードバックが、からみあう。

 スピードが早くなれば、このイメージの河は、より鋭く、ライダーをさしとおす。路面をたぐりつづける熱をはらんだタイアが、ライダーのもうひとつの目に、いつまでも見える。

  3

 照明灯が点々とつながる夜のインターチェンジ。料金所を出て、オフ・ランプのS字をくだっていく。暗い県道にぶつかる。左へいこうか右へいこうか。どっちだっていいんだ。

 小さな林や民家の点在するなかを、千八百回転、四十キロ。橋の上で、一台の耕耘機とすれちがう。畑の仕事は、いま終わったのだろうか。

 夜の空気の香りが、遠い小さな町のものだ。見知らぬところへひとりで来てしまったという思いをかきたててくれる香りだ。途中にも、小さな町はいくつもあった。その町々をかなりのスピードで走り抜けてしまったことが、軽く悔やまれる。

 踏切りの警報が、前方に聞こえはじめる。赤いランプの点滅が見える。一速に落とし、超低速で走ってみる。踏切りにさしかかる以前に、電車をやりすごそうというのだ。

 道路の左側、田んぼをこえたむこうの林の茂る丘から、二輛(にりょう)連結の気動車が出てきた。一列につながっている小さな四角い窓が明るい。乗客は、ほとんどいない。線路は、 いまバイクで走っている道路と直角に交差している。

 左から右へ、気動車が走り抜けていく。警報機が鳴りやむ。低速でともすれば深く切れこもうとするときのステアリングに感じる重さが、アクセルをすこし開くとすっと消える。腰をシ ートから浮かし、 ステップに立ちあがって踏切りをこえる。

 やがて道路の両側に民家が多くなる。生垣のすきまから、あけてある窓の中にテレビの画面がちらっと見える。そのまま走っていくと、商店のある通りに突き当たった。この小さな町のメイン・ストリートだ。

 正面のスーパー・マーケットが、鉄のシャッターを半分ほど降ろしている。婦人もの超特価サービス週間というような貼り紙を見ながら、親指は左のウインカーを押している。

 走っていくと、魚屋がある。ここも、店をしまう時間だ。今日おしまいの客に店主のおじさんが塩焼き用の魚をすすめている。 魚屋のまえにバイクをとめて歩道に左足をつき、おじさんの言葉を聞く。かろうじて、意味がとれる。

 サイド・スタンドを出す左足が、ものうい。今日もまた夕暮れをひとつ見送って夜になったこの小さな町も、おなじようにものうい。サイド・スタンドに車重をまかせ、腰の位置をかえ、右足をステップからはずす。だらんと、垂らす。太腿に、オイル・タンクの熱が伝わってくる。

 エンジンを切り、バイクを降りる。またがりどおしだったフレームの感覚が、体に残っている。乗ってきたバイクの重さを、一日ぶんの疲労と共に感じる。

 ヘルメットを脱ぐ。そのあたりをすこし歩いてみながら、今夜この見知らぬ町で自分はどんな人と話をかわし、なにを食べ、どんな宿に眠るのだろうかと、ほこりでざらざらの顔を撫でて思う。

  4

 人と話をしたい。でも、もうすこし、ひとりで黙っていたい。

底本:『アップル・サイダーと彼女』角川文庫 1979年

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2016年6月26日 05:30
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