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なんでも好きなものを食べたまえ

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 僕にとっての日本はオキュパイド・ジャパン、つまり占領下の日本だった。一九四五年夏の敗戦からそれは始まり、歴史年表の上では一九五一年九月、サンフランシスコ講和会議で対日講和条約が調印されたときまで、続いた。赤子そして幼子として、僕は戦中をかすかに知ってはいるのだが、物心ついたのは、広島に投下された原子爆弾のきのこ雲を見た、一九四五年八月六日の夕方だ。そしてその日の朝には、その原子爆弾が広島上空で炸裂したときの閃光を見ている。物心ついた自分とは、いかにおぼろげで頼りないものではあっても、社会的な広がりのなかで自覚された自分であり、その自分がまっ先に体験したのは、広島上空で炸裂した原子爆弾の閃光ときのこ雲であり、それに続いた敗戦だった。

 オキュパイド・ジャパンが終わりを告げ、それに代わって、それまでとはまったく別種の次の日本が登場して来る様子は、ごく簡単な歴史年表(『昭和・平成現代史年表』神田文人編・小学館刊)を見ていくだけでも、よくわかる。一九五〇年一月一日、年頭の辞でマッカーサー元帥は、「日本国憲法は自己防衛権を否定せず」と言明したという。その年の六月には朝鮮戦争が始まり、七月の日本政府は、朝鮮の戦争でアメリカ軍に協力する方針を明らかにした。八月のマッカーサーは、七万五千人という人員による警察予備隊という組織の創設を日本に要請し、あわせて海上保安庁の八千人の増員を指示した。

 一九五一年一月、講和の準備のためにアメリカから日本へ来たダレスという人が吉田首相と会談し、日本の再軍備を求めた。それに対して日本政府は、五万人の保安部隊を創設する案で応えた。四月にはマッカーサー元帥が朝鮮での作戦をめぐってトゥルーマン大統領と対立し解任されて日本を去り、後任はリッジウェイ中将となった。七月には朝鮮戦争の休戦会議が開城で開かれ、九月にはすでに書いたとおり、サンフランシスコで対日講和条約が調印された。

 一九五二年三月、自衛のための戦力は合憲である、と吉田首相が参議院の予算委員会で答弁した。おなじ三月、GHQは兵器の製造を日本に許可した。朝鮮戦争が引き起こした経済特需に日本を参加させ、それによって日本に経済的な力をつけさせるためだ。四月には海上警備隊が発足し、七月にはそれまでは警察予備隊と呼ばれていた組織が、保安隊へと改組されて保安庁が生まれ、この保安隊がすぐあとに生まれる自衛隊の前身となった。十月には経団連が軍需生産を日本の経済路線の柱とする方針を明らかにした。

 一九五三年六月、保安隊の増強に関する五ヶ年計画が政府から発表され、七月には朝鮮戦争の休戦協定に調印がなされた。十一月、日本を訪れたニクソン副大統領は、「日本国憲法の第九条を作ったのはアメリカのおかした誤りだった」と発言した。一九五四年一月の一般教書でアイゼンハワー大統領は、沖縄にあるアメリカ軍基地をアメリカが無期限に保持することを表明した。七月に防衛庁が作られ、陸海空の三軍による自衛隊が発足し、十二月には自衛隊そのもの、そしてその保有は合憲である、という統一見解を政府は発表した。一九五五年十一月、自由民主党が結成され、保守はここに合同した。

 一九五六年一月、在日アメリカ軍は地上部隊の削減をすることを発表した。七月には経済白書『日本経済の成長と近代化』が発表され、「もはや戦後ではない」という言葉が流行した。一九五七年五月、岸首相は「自衛の範囲内なら核保有も合憲」と、参議院で発言した。六月にはアイゼンハワー大統領と会談し、日本とアメリカとが新しい時代に入ったことを強調した。八月にアメリカの国防総省は日本から地上戦闘部隊を撤退させると発表した。一九五二年には二十七万だった在日米軍は、一九五八年に撤退が完了したときには、六万五千人となっていた。日本から陸軍が去り、在日アメリカ軍は空軍から海軍へと、その中心が移っていった。一九六〇年六月、新安保条約が自然成立した。おなじ年の十二月、日本政府は国民所得倍増計画を発表し、経済高度成長が国策として文字どおり国を挙げて推進されることになった。

 朝鮮戦争から新安保条約までの十年足らずをこれほどおおざっぱにたどっても、ひとつの時代の終わりと次の時代の始まりとの、密接で必然的な重なり具合がよくわかる。僕にとって最初の日本が戦中の日本なら、物心ついたとたんに始まった二度目の日本は、オキュパイド・ジャパンだった。普通ならそうはならずに、戦中とそのまま地続きの戦後が自分の日本になるのだろうけれど、僕の場合は敗戦と同時に、占領軍を経由したアメリカと、突然にしかもたいそう近くなってしまった。そしてその状況は何年も続いた。子供としては環境や時代を選ぶことはできないから、どのような日本であれそれを受けとめるほかなく、僕の場合はオキュパイド・ジャパンを受けとめることになっただけだ。

 朝鮮戦争の休戦あたりから、自分の日本は終わっていくのだという感覚が自分の内部に生まれ、少しずつ強くなりつつ僕のなかにあり続けた。いま書いたとおり、オキュパイド・ジャパンは歴史年表的には一九五一年に終わる。日本を去るマッカーサー元帥を多くの日本人が見送ったとき、占領期の終わりを感じた人は少なくなかっただろう。現実のなかのオキュパイド・ジャパンは、地上戦闘部隊の撤退あたりまでは続いたはずだ。僕の場合は一九五三年から五四年にかけて、オキュパイド・ジャパンの終わりを感じることが多く、しかもその感じかたは回数を重ねるたびに、確定的となっていった。

 ジャパンをオキュパイ(占領)していたのは占領アメリカ軍だから、そのオキュパイド・ジャパンが僕にとって終わっていくとは、アメリカ軍とそれをとおしたアメリカが、心理的にも物理的にも、少しずつ遠のいていくことにほかならなかった。そのようなことを僕に感じさせる大小さまざまなことが身辺にいくつも重なっていくと、ああ、終わるのだ、という感慨みたいなものを、節目ごとに感じることとなった。

 身辺の小さな出来事を象徴するものとして、いまも僕の記憶の表層にくっきりと刻まれているのは、マヨネーズだ。マヨネーズといえば、ベストフーズあるいはダーキーズというアメリカの銘柄の、大きなガラス瓶に入ったものときまっていた。母親はマヨネーズを「軟膏」と呼んで、嫌うというよりも問題外という態度を取っていたが、一九五三年から五四年にかけてのある日、キチンのテーブルに日本のキューピー・マヨネーズがあるのを僕は見た。小ぶりなガラス瓶に入っていたと思う。かすかにアメリカ的な雰囲気を取りこみながらも、それは明らかに日本のものであり、人に勧められたから買ってみた、と母親は言っていた。

 キューピー・マヨネーズは大正十五年、昭和元年、一九二六年の発売だから、オキュパイド・ジャパンの終わりとはなんの関係もないのだが、象徴としての意味は個人的にはたいそう深い。そしてこのときから自宅では、マヨネーズは母親が気に入ったキューピー・マヨネーズとなった。言葉はおなじマヨネーズでも、味や香りはまったくちがっていたし、見た目はさらに大きく異なっていた。終わっていくオキュパイド・ジャパンの、僕にとっての象徴的な出来事のひとつが、このようなキューピー・マヨネーズだ。そしてこのキューピー・マヨネーズと対になる象徴的な出来事のもうひとつは、ナンシー梅木という女性のジャズ歌手だ。

 一九二九年に小樽で生まれた彼女は、本名を梅木美代志といい、戦後になってジャズに興味を持ち、札幌や仙台で歌い、東京に出て来て格付けのオーディションを受けてAランクに合格し、人気のあったジャズ・バンドの専属歌手として活躍を始めた。日本での人気がもっとも高まった一九五五年七月の終わりに、彼女はアメリカへ渡った。移住した、と言っていいだろう。アーサー・ゴッドフリーのタレント・スカウト番組で一位になり、彼のTV番組に出演している様子が、一九五七年の映画『サヨナラ』のキャスティング・ディレクターの目にとまり、「かつみ」という名の日本女性をマーロン・ブランドを相手に演じて、アカデーの助演女優賞を獲得した。

 日本ではナンシー梅木として日本人の観客にジャズを歌っていたのだが、アメリカではミヨシ・ウメキとして日本ないしは東洋の女性を、アメリカの観客のために演じた。しかもそれで大成功を収めたという、見事な逆転劇が一九五五年から五七年にかけての出来事なのだから、このあたりで僕のオキュパイド・ジャパンはほぼ完全に終わった。日本のなかにあるアメリカとのつながりが消えたのは一九六〇年代なかばだったが、現実のなかで常に作用している惰性というものによって、関係の終わりがそこまで引き延ばされただけのことだろう。

 自分にとっての日本だったオキュパイド・ジャパンが少しずつ終わっていく過程に重なって、次々にあらわれて来る新しい日本は、高度経済成長の日本だった。瀬戸内から東京へ僕が戻って来たのは一九五三年のことだ。オキュパイド・ジャパンが終わっていくプロセスは、このときすでにとっくに始まっていた。

 かなりのところまでなじんだオキュパイド・ジャパンが少しまた少しと遠のいていくのを感じながら、次の日本を受けとめる心の準備をしなくてはいけないことになった僕は、一九五三年から五五年あたりにかけて、つまり中学生だった時期、口数が少なくて静かな、もの思いに沈んでいるように見えることの多い少年だった。都心でバスに乗り、バスの内部の妙に見覚えのある構造に気づいてよく観察すると、払い下げられた米軍のバスを改造したものであることがわかるという、そんな時代だ。

 スパゲッティ・ナポリタンに初めて遭遇したのは、ちょうどこの頃、おそらく十三歳から十五歳にかけてのことだ。とある日曜日に父親と外出することになっていた友人が、よかったらきみも来ないか、と僕を誘った。多少は気持ちの動くなんらかの催物を見物しにいったのだったと思うが、その部分に関する記憶は消えている。友人は、僕のほかにさらにもうひとり、誘った。そろって出かけたこの四人は、所定の目的を達したあと、渋谷で食事をした。昼食ではなかったし、かなり早めにしても夕食でもなく、その中間のおやつのような食事だ。

 きみたちはお腹が空いただろう、空いたに違いない、なにか食べよう、今日は僕が御馳走する、などとひとりできめた友人の父親に導かれて入ったのは、記憶の断片のいくつかを統合すると、東横百貨店の食堂だったはずだ、ということになる。好きなものを食べなさい、と言われた友人たちふたりは、そろってスパゲッティ・ナポリタンを注文した。スパゲッティ・ナポリタンという料理をそのときの僕はまだ知らなかったが、スパゲッティと言うからにはスパゲッティ料理だろう、だったら僕もそれで充分だという気持ちに加えて、ナポリタンという言葉の日本語としての音声の語感が面白く、自分でもその言葉を言ってみたくなり、僕もナポリタンをいただきます、と言った。

「ほほう」と、友人の父親は目を細め、「子供はみんなナポリタンが好きなんだなあ」と言った。ひとりだけ大人の男の彼はビーフ・シチューを注文した。制服のウェイトレスに注文を告げて待つことしばし、ひょっとしたら食券を買う方式だったかもしれないが、ビーフ・シチュー一人前とスパゲッティ・ナポリタン三人前とは、やがてテーブルに届いた。なぜだか僕にだけつんけんしているウェイトレスが僕の前に置いてくれたスパゲッティ・ナポリタンの皿は、僕が初めて体験する記念すべきナポリタンとなった。

 目にした瞬間に反射的に思ったのは、スパゲッティ・ウィズ・トマト・ソースというアメリカの缶詰だった。しかし反射的にただ連想しただけであり、両者はまったく似てはいなかった。スパゲッティ・ウィズ・トマト・ソースは、すでに書いたと思うが、トマト・ソースにただどっぷりと漬けこんだだけと言いたくなる雑なもので、からみついているトマト・ソースをフォークの縁で取り去ったスパゲッティは、白くて太くて見るからに軟らかそうだ。そしてそれはぜんたいとしてまさにアメリカなのだが、僕の目の前に置かれたスパゲッティ・ナポリタンは、あらゆるディテールが、そしてそれらの統合されたぜんたいが、完璧に日本だと僕は直感した。

 赤い色がケチャップだということは、見ればわかった。色だけではなく、かなり強く漂ってくる香りもケチャップのものだった。僕にとってアメリカ食品のなかでもっとも不思議な、この世のものとも思えないほどに幻想的なケチャップが、スパゲッティ・ナポリタンという完璧なまでの日本のなかにいっぽうの主役として取りこまれ、少なくともその外見上では、その能力の限度いっぱいに見事に機能しているではないか。

 友人たちふたりは皿に向けてかがみこみ、フォークですくい取ってはナポリタンを盛んに食べているのだが、僕は食べるどころではなかった。敗戦から八年ほどが経過した日本で、いきなり加速されはじめた時代の推移のすべてを、スパゲッティ・ナポリタンという一点において、十三、四歳の感受性のぜんたいで受けとめた衝撃は、けっして小さくはなかった。あれから五十五年ほどあとのいま、僕はこんなことを書く。

 オキュパイド・ジャパンのなかで知ったアメリカの食品のなかで、もっとも不思議で幻想的なものだと自分が位置づけたケチャップが、オキュパイド・ジャパンが少しずつ消えていくのと入れ違いにあらわれて来る次の日本のなかで、もはやそのなかに完璧に取りこまれ、日本そのものとして、スパゲッティ・ナポリタンのなかで機能している様子に、僕は驚いた。オキュパイド・ジャパンの次に登場した、まったく別の日本へのイニシエイションが、僕にとってはスパゲッティ・ナポリタンとなった。

 アメリカから日本へと転換をとげたケチャップを、アメリカの缶詰ほどには軟らかくないスパゲッティとともに、僕は感覚の総動員で体験した。あらかじめ茹でて用意しておいたスパゲッティを、玉葱を炒めたフライパンに入れ、ハムとは言いがたいようなハムの切れ端を加えてさらに炒め、そこにケチャップを入れ、炒めの最後の段階をおこなう。皿に盛ったあと、ケチャップの赤と対比させる緑として、グリーンピーズをばらっと振りかければ、それで出来上がりだ。これなら自分だって自宅でたちどころに作れる、などと思いながら食べていく僕が受けとめたのは、日本におけるケチャップの具体的な使用例のひとつであるナポリタンは、ケチャップが日本に取りこまれただけではなく、必要にして充分な工夫と一体化された上で完璧に使いこなされ、日本そのものとなっている、という事実だった。そのナポリタンを僕が半分ほど食べた頃には、ふたりの友人たちはすでに食べ終えていた。友人の父親は、ちぎったロール・パンで皿に残ったシチューのソースを拭い取っては、口に入れていた。

 このときの僕は当然のことながら、ホテルニューグランドでの、スパゲッティ・ナポリタンの始まりのエピソードなど、これっぽっちも知らなかった。知らないままに食べながら、さらにもうひとつ直感したのは、これは日米合作である、ということだった。ホテルニューグランドのエピソードは、スパゲッティ・ナポリタンが敗戦直後にそこで誕生してから巷ヘと普及していく過程の、上意下達の構造の典型例だ。上から下に向けてトリックル・ダウンしていき、そこにある程度までたまったなら、こんどは横に向けてスプレッド・アウトしていくという構造だ。文句のつけがたいエピソードだが、それはそれであくまでも一例だと考えることにして、僕が思う日米合作は、下部構造に於ける異文化どうしの相互努力の物語だ。

 占領が始まって二年後、一九四七年の秋あたりにその小さな物語を設定しようか。とある歴史年表によれば、この年は、「粗悪な仙花紙のエロ・グロ的なカストリ雑誌が氾濫。もんぺ姿が減りスカートが増加。性病蔓延、患者推定四十万人。都内の年間収容浮浪者一万人を超える」というような時代だった。当時の日本にはいたるところにアメリカ軍が進駐していた。

 かなりあとまで米軍基地として存続した、どこか地方都市の近郊の基地で、若いGIがスパゲッティ、オリーヴ・オイル、ケチャップ、ソーセージの缶詰、ホット・ソースなどを、カミサリーで買い求める。

 カミサリーとは、食料品その他、日常のものはすべて揃っている大きなスーパーマーケットのような売店だ。買いととのえた材料を茶色の紙袋に入れてかかえ持ったその兵士は、基地のすぐ外にある洋食の店へいき、持って来た材料を店主に見せ、これでスパゲッティを作って食わせてくれ、俺は腹がへっている、と言う。ごく軽いいたずら心、そしておなじ程度に軽い創意ないしは思いつきによる、ちょっとした遊びのような試みだ。

 いくら敗戦直後とはいえ、洋食の店の主人がスパゲッティやケチャップを知らないはずがない。とにかく手早く作らなくてはいけないと判断した彼は、スパゲッティを茹で始める。フライパンにオリーヴ・オイルを敷き、細かく切ったにんにくを玉葱とともに炒め、何本かのソーセージを小さく切ってそこに加える。アル・デンテを越えて茹で上がったスパゲッティをフライパンに移し、すべての具とともにさらに炒めながら、ケチャップを加えていく。

 出来上がったものをその若い兵士は食べる。基地の食堂で供されるものよりもはるかに美味だ、と彼は思う。喜んだ彼は日を置いておなじことを何度も繰り返し、仲間が加わり、やがてそのスパゲッティは評判になり、店の日本人客にもおすそ分けで広まっていく。放出物資としてスパゲッティやケチャップそしてオリーヴ・オイルなどを優先的にまわしてもらう、という程度の関係なら、基地とのあいだに難なく生まれるだろうから、このスパゲッティはほどなく店のメニューに載る。名称をなんとすればいいか、店主は考える。スパゲッティが入っている袋には、ナポリタンというブランド名が、雰囲気のある書体で印刷してある。そうだ、この言葉を使えばいいのだというわけで、スパゲッティ・ナポリタンがそこに生まれる。占領軍の基地とその周辺の日本との関係のなかに、これと近似のエピソードはたくさんあったはずだ、と僕は推測する。

底本:『ナポリへの道』東京書籍 2008年


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2020年9月9日 07:00
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