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ロードライダー

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 全身で風を切り裂いて走りつつ、これからの行程を彼は考えた。ロード・マップを頭のなかに描いてみた。目的地までのルートなら、頭のなかにすでに叩きこんで記憶してあった。

 その記憶をたどりなおすと、オートバイにまたがった彼は、軽い目まいのようなものを覚えた。行く手に横たわっているのは、巨大な空間だ。ハイウエイの路面とこのオートバイだけを頼りに、その空間と自分とが、存分に対決しなくてはならない。

 硬く張りつめた、残酷なまでの青空が、頭上と行く手にあった。陽ざしが全身のあらゆる部分をさしつらぬくようにきらめき、風がオートバイと彼の体を叩きつづけた。

 都会は、あっさりと振りきることが出来た。コンクリートの道路や建物がぎっしりとつまってはいるけれども、都会ぜんたいはほんのわずかなスペースでしかなかった。簡単に走り抜けることが可能だった。

 都会を置き去りにすると、すぐに山がせまった。はじめのうち、灰色の灌木でおおわれた丘のかさなりあいだった。

 丘は次第に大きくなり、山になった。山なみが複雑に交錯するなかを、ハイウエイがくねった。

 行く手に、標高一万フィートをすこしこえる頂上を持った山なみが、常に見えかくれするようになった。ちょうどそのころ、彼の顔に当たりつづける風から、自動車の排気ガスのにおいが、ほぼ消えた。自分のエンジンの焼けるにおいが、ときたま彼の肺に飛びこんだ。

 ハイウエイは、直線の部分をはさみつつ、地形にほぼ忠実に、右に左にカーヴを描いていた。

 そのカーヴをひとつひとつこなしつつ、サン・ゲイブリエルの山なみのなかへ入りこんでいけばいくほど、置きざりにしてきた都会が脆弱なものに感じられた。

 オートバイの二本のタイアがたぐりこんでは後方に投げとばすハイウエイは、やがて、複雑に隆起した山なみのぜんたいをこちらにむかってひきずり出してくるように感じられはじめた。自分が山なみのなかに入っていくのではなく、山ぜんたいが重く静かに、自分にむかって移動し、のしかかってくる。

 一定のテンポとパワーで走りつづけることによって、大陸という自然が自然のままに持っているすさまじい量感に、かろうじて対抗することができた。

 このオートバイなら、頼りがいは充分にあった。エンジンのパワーは申し分ないし、排気音はライダーの心をなぐさめ安心させ、同時に、限りなく勇気づけてくれる。

 車体の大きさや重量、それに、機械としての存在感も手ごたえは充分だった。

 このあたりまでくると、ハイウエイに自動車はすくない。たまさかの対向車は、ようするにちっぽけな鉄の箱でしかなかった。対向車線を自走する、ちょっとした障害物だ。

 ハイウエイは、オートバイのひとりじめだった。

 一定のスピードとテンポで、ある距離を走りおえると、そこからさきは不思議な世界となった。ライダーである彼は、なんの遮断物もなしに自分の体が接しつづけているサン・ゲイブリエルの山なみそのものになった。

 二本のタイアは、忠実に路面をたぐりつづける。エンジンの内部では混合気の燃焼がつづき、ピストンはクランク・シャフトをまわしつづける。

 そして、ライダーの体は、オートバイと一体だ。ライダーの肉体はオートバイを離れることはできない。状況に応じた適切な操縦を、ライダーとオートバイは、おたがいに要求しあう。ライダーはオートバイにしばられ、オートバイはライダーを一定の枠の内部に拘束しつづける。

 だが、ライダーには、目という武器があった。視覚だ。視覚をとおして自分の存在の内部にとりこむことのできるいっさいの感覚は、逆に、ライダーの肉体が持っているさまざまな感覚を、視覚をカタパルトにして、空間のなかへ解放することができた。

 皮膚の感覚や、オートバイの振動を感じとる体の内側の感覚、それに聴覚が、視覚を増幅した。

 ライダーの肉体は感覚とともにオートバイにしばりつけられたままだが、視覚を中心核としてあらたに増殖されつづける感覚は、無尽蔵だった。この感覚が、生まれてはかたっぱしから、空間に飛んだ。

 ライダーの視覚が空間にむけられるだけで、ライダーの感覚はその空間いっぱいに広がった。つまり、ライダーは、自分自身はオートバイにまたがったままでありつつ、感覚という重要な分身を空間のどこへでも自由に放つことができた。

 視覚の届くところすべてが、ライダー自身だった。いくら空中に飛ばしてもなくなることのない感覚が、ライダーの肉体に衝突する風に誘い出され、空間を自由にさまよった。近くても遠くても、高くても低くても、どこであろうと彼の感覚は自在に届き、感じとることができた。

 ただし、青空だけには、かなわなかった。底なしのスカイ・ブルーは、奥が深すぎた。いくらライダーの肉体から感覚の触手を放っても、感覚は音もなく吸いこまれていくだけで、フィードバックがなかった。空の深さは、当然のことながら、無限だ。フィードバックはまったくないけれども、底なしだという事実は、いつだってたやすく確認できた。

 底なしの青空の存在は、しかし、空よりほかの空間や存在をきわだたせるものとして、ライダーには安心感をあたえた。鋭くきらめく光に充満した青い底なしの空は、サン・ゲイブリエルのハイウエイをいまオートバイで走る彼にも、安心感をあたえていた。

 彼の目の届くあらゆるところが、彼自身だった。彼の目には、複雑に連続する山なみが見えていた。だから、彼は、ライダーであると同時に山なみでもあった。

 いくつもかさなりあう長い峰の、こちら側の灰色のスロープ。ハイウエイの縁から落ちこんでいる谷の底。遠い行く手にいちばん高くそびえる連峰の、頂上に輝く雪。ときたまハイウエイのすぐわきにまでせまってくる、削り取られた丘のスロープ。刻々と見えつづけるものすべてが、彼自身であった。

 陽の光も、その光にひたされている空間も、彼には見えた。だから、彼は、陽の光でもあり、空間そのものでもあった。

 彼の体に衝突しつづける風も、彼には見えていた。視覚がとらえる陽ざしや空間に、彼の体の皮膚の感覚、たとえば風を受けつづける頬や逆立ってうしろになびきつづけたままの髪がとらえる風が、複雑にそして微妙にからみあった。彼自身のいまの感覚のなかでは、風は明確に見えていた。したがって、彼は、風にもなりえていた。

 いまオートバイで走っている地形と、そこにある空間や陽ざし、それに風などの完璧に統合されたぜんたいが、彼だった。オートバイの魔法のただなかに、いまの彼はいた。

 道路に対して忠実に走るために、ライダーの注意力は、主として視覚能力をとおして、ある程度まで常に拘束されつづける。だが、彼の視覚能力には、余剰が必ずある。ありったけの注意力を全開にしなくてはいけないようなスピードで走っているわけではないし、道路の状況には充分に余裕があった。

 道路をさきへさきへと読む作業のほかに、彼の感覚は、いま自分が走っているサン・ゲイブリエルの山のなかという地形の、視覚でとらえうるぜんたいとの、濃密な緊張関係をつくりだした。

 徹底して青い空の下に、透明な風が吹き、陽光が鋭くきらめきつつ、充満している。その風や陽ざしに洗いつくされて彼の頭の内部は、きれいさっぱりと空洞だった。

 そして、そのかわりに、彼の目に見えているあらゆるところに、彼がいた。ハイウエイのすぐ縁から、谷が落ちこみ、広がっている。複雑な起伏をたたえた谷だ。ハイウエイを走りつつ、彼の視覚は、その起伏を追っていく。彼の感覚は、風や陽ざしに洗われるその起伏とともにある。

 彼の視線は、谷を離れる。遠いスロープをのぼり、ハイウエイと平行に横たわるいちばん手前の山なみにのぼっていく。そのむこう側の、さらに高い山なみを背景に、手前の山の稜線を彼の感覚はたどる。

 空間をたやすく飛びこえ、山なみの稜線をたどる感覚は、奥へ、さらに奥へとのびていく。突然、いちばんむこうの銀色に雪をとどめた連峰が顔を出し、彼の感覚はそこに移る。

 と同時に、ハイウエイはS字のカーヴだ。そのS字を抜けるために、わずかだが車体を右に左に寝かせる。そのことをきっかけにして、雪の稜線をたどっていた彼の感覚は、空中へ滑走するように飛び出していく。風や陽ざしとたわむれ、鮮明に輝く底なしのブルーの空間へ、どこまでも遠く、一直線に、彼の感覚は吸いこまれていく。

  *

 ロード・マップは、いつだって正確に、記憶のなかによみがえる。インタステート・ハイウエイは、一ミリほどの幅の、グリーンの線だ。砂漠は、まっ白。荒野も、まっ白だ。

 地形はいま、平たかった。大陸の太平洋側すれすれにまでせまっている山をこえ、置き去りにした。その山なみの稜線が、彼のオートバイのミラーのなかに、小さく映っていた。

 見渡すかぎり、平らだった。荒野と砂漠をかけあわせたような性質の地形だ。地平線の彼方に、ハイウエイが、まっすぐにのみこまれていた。盛大なかげろうのなかに、ハイウエイは溶けていた。かげろうを介して、地平線は空と接しあった。

 ひたすら、まっすぐに走る。だから、彼は、風を直正面から体に受けとめつづける。自分の肉体を叩く風圧は、いま自分の周囲に広がっている平たい地形の、圧倒的な平たさとしての量感だった。

 平らな地形と呼応して、青い空も、平坦な広がりとしていまは意識される。ハイウエイがかげろうに溶解されているあたりの上空に、いかにも雲らしいかたちをした雲が、わきあがっている。ハイウエイのそえものとしてそこに人工的につくったようなその雲の底辺のちょうどまんなかにむけて、ハイウェイはのびていた。

 背の高い雲だ。頂上のあたりは狂ったようにまっ白に輝き、底に近くなる。と、うっすらと紫色をおびていた。

 頭上におおいかぶさる、平坦な青い空。そして、その下に広がっている、おなじように平らな荒野。彼がいま走っている空間は、この二種類の平坦さによってサンドイッチにされた空間だった。その平坦さは、彼の正面から来つづける風圧と、彼をさしとおしつづける陽ざしを介して、彼にのしかかった。

 右手で握っているスロットル・グリップに、彼は左手をのばした。グリップの左端にあるクルーズ・コントロールのスクリュー・ヘッドを、手袋をした指さきでさぐり当てた。そして、スクリュー・ヘッドを、しめていった。いま走っているスピードに、スロットルを固定した。右手をグリップから離しても、スロットルは一定の開度を保ったまま、動かない。

 フット・ステップから両足を浮かし、ほぼ同時にハンドルから両手を離した。オートバイは、なにごともなかったかのように、動ずることいっさいなく、直進をつづけた。直進の安定性に非常にすぐれているこのオートバイは、時速で五十キロも出ていれば、両手をいくら離しても、そのまま直進する。

 両足をさらに持ちあげ、ハンドルに置いた。光っているハンドル・バーにブーツの土踏まずをかませ、ヒールで押さえこんだ。

 腰をシートの前部にずらしつつ、彼は上体をうしろに倒した。やがて、後頭部が、ダッフェル・バッグに乗った。アーチに反らせていた背中を、おだやかな段差のあるシートに降ろした。

 オートバイのうえに、彼はあおむけの姿勢になった。眼球を動かすだけで、ハイウエイは前方のかげろうまで見渡すことができた。先行車など、影もかたちもなかった。

 平らに寝そべって空をあおぎつつ、彼は、直進するオートバイにすべてをまかせた。太腿のあいだから腹のうえを、風が吹き抜けた。顔を、下から風が洗った。

 右手を顔に持っていき、サングラスをとった。用心してあらかじめ細めていた彼の目を、強烈な陽ざしが直撃した。青い空だけが彼の視界を埋めつくし、降り注ぐ太陽の光は、オートバイのうえに彼をまっ平らに叩きのめした。

 陽ざしに焼かれた路面や荒野の草、そして自分のオートバイのオイルのにおいなどが、風にかにからまって彼の体内に叩きこまれた。

 目をしかめていったん閉じ、すこしずつ開いた。太陽は、頭上よりもわずかに後方にあった。左腕を額にのせて太陽の直射をさえぎり、彼は空を見た。

 光り輝く底なしの蒼穹を、彼はオートバイとともに滑空した。

 空の強烈な青さと広がり、そして鋭く硬い陽ざしのきらめきに対して、オートバイのうえにあおむけの彼は、まったく無防備だった。

 陽ざしと風と空の青さは、彼の胸や腹を、切り裂いた。内臓のあらゆる部分が、陽に焼かれ、風で洗われた。

 眼球を下に動かし、彼はハイウエイの行く手を見た。直線のハイウエイの彼方にかげろうが変わらずにあり、その上空に、白と紫色の雲のかたまりが、浮かんでいた。

(『いい旅を、と誰もが言った』1980年所収、底本:片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』1996年所収)


1980年 1996年 『いい旅を、と誰もが言った』 オートバイ ハイウエイ 片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』
2016年3月17日 05:30
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