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私の学校

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 小学校から高等学校まで、学校の教室におけるぼくの席は、いつもいちばんうしろだった。しかも、窓ぎわだ。窓ぎわのいちばんうしろの席以外の席にすわった記憶がぼくにはない。

 なぜいつもいちばんうしろだったかというと、少年のころのぼくはほとんど学校へいかなかったからだ。たとえば小学校は六年間もあるが、ぼくが小学校の教室のなかですごした日数は、六年間をとおして三百日あるかないかだと思う。その証拠に、少年や少女が小学校でごく普通に学ぶさまざまなことがらのうちの非常に多くを、ぼくは大学生になってから意識的に勉強してようやく知った。いまでも、知らないことはとても多い。中学校は百日くらいかよったと思う。高等学校も、おなじようなものだ。

 あまりにも学校へいかないものだから、学年や学期のはじめには自分の机と椅子があっても、やがてぼくのその机だけいつもひとつあまっているように見えはじめ、先生は用務員に命じて倉庫にかたづけさせてしまう。したがって、久しぶりに学校へいくと、自分の机と椅子がない。用務員のおじさんが倉庫から机と椅子を出してくる。おじさんは机をかつぎ、ぼくがそのうしろから椅子を持ってついていき、教室のいちばんうしろに自分で席をつくっていた。なぜ窓ぎわかというと、授業中いつでも外を見ることができるからだ。

 学校における子供たちの管理が現在とはくらべものにならないほどにゆるやかな牧歌的な時代にぼくは少年の日々を送った。だからこそ、こんなふうにろくに学校へいかなくても、小学校、中学校、そして高等学校と、順番に卒業していくことができたのだ。だから、ぼくにとっての学校は、ひとりの少年を自由にほったらかして好きなようにさせてくれることの可能だった時代ぜんたいだ、とまず言うことができる。時代ぜんたい、と言うとなんだか大げさだが、ようするに大人たちの都合によって子供がいろんなふうにこまかく管理されることのまだごくすくなかった十二、三年間という日常の日々だ。

 それから、このような牧歌的な日々をすごした場所もまた、ぼくにとっては大切な学校だった。日本のなかでもっとも快適で住みやすいところだとぼくが本能的に強く感じている瀬戸内海地方で、ぼくは自由な少年の日をすごした。瀬戸内海がまだこのうえなくきれいだったころだ。野や山や海がまさに少年のために準備してあるように存在し、いま思いかえすと、この場所ぜんたいもまた、ぼくにとってはほかにかわるもののない大事な学校だったのだということが、はっきりとわかる。

(『すでに遥か彼方』1985年所収)


1985年 『すでに遥か彼方』 子供 学校 少年時代 瀬戸内
2016年5月21日 05:30
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