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読んでから観ても、観てから読んでも、映画は面白い勉強だ

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 話題作として映画になった原作小説のペーパーバック、あるいは、メディア・タイインと称して、映画およびその映画の完成スクリプトにもとづいて大急ぎで小説をおこしたノヴェライゼーションのペーパーバックが、いつのまにかたくさんたまっていく。洋書店へいくと、ペーパーバックの棚には、映画の原作やノヴェライゼーションのペーパーバックが、いつも何種類か、ならんでいる。こういったペーパーバックをかたっぱしから買っておき、観てから読んだり、読んでから見たりすると、勉強になって楽しい。

 映画の画面を見てセリフを聴いているだけでは充分にわからなかった背後の事情とか、人間関係の有機的なからみぐあいなど、映画からおこしたノヴェライゼーションのペーパーバックでも、意外に深いところまでわかったりする。会話はスクリプトとほとんどおなじだから、台詞や会話の勉強などをやっている人にとっては、話題の映画のノヴェライゼーション・ペーパーバックは、お勉強の手段として欠かせない。日本語の字幕を読んでいるだけでは、アメリカ映画を観たとは言えないだろう。いちばん大事な要点だけを、きわめて簡潔につまみ出して日本語にしているのだから、字幕だけが頼りだとこぼれおちるものがいっぱいある。台詞を音で聴いてそのまますんなりわかればいちばんいいのだが、そこまでいくのはたいへんだろう。だから、ノヴェライゼーションのペーパーバックを読んで、こまかく勉強するといい。

 それから、スクリーンを観ているだけでははっきりとはわかりかねたこまかなこと、たとえば『マイライフ』という映画で、主人公のベティ・クインが、いまはもう別れた夫と外で食事をするシーンで、なにを食べたのか、ジュリア・ソレルのノヴェライゼーションを読むとわかる。

 ウェーターが料理を持ってきてテーブルのうえに置く描写が画面で出るのだが、その料理がなにであるのかまでは、映画を観ているだけではわからない。英語で書いてあるのをそのままカタカナで伝え直すと、その料理は、「ホット・ヴァイスブロット・プレート・ウイズ・レッド・キャベジ・アンド・ポテト・サラダ」だそうだ。

 おなじくベティ・クインだが、彼女が学校の勤めから自宅に帰ってきて、娘たちと話をしながら石鹸で顔を洗うシーンがあった。このとき彼女が使う石鹸は、ペパミント・オイルでつくった石鹼なのだ。ペパミント・オイルやアーモンドのオイルを使ってつくった石鹸がアメリカには昔からあり、人間の肌との相性の良さを考慮したうえでの洗浄力を持った石鹸としてペパミント・オイルやアーモンド・オイル・ソープは、人気が高い。料理も石鹸も、一見どうでもいいことのようなのだが、勉強にはこんなふうな日常的でこまかいことのつみかさねが大事なのだとぼくは感じる。

 映画の公開にあわせてスクリプトからおこしたノヴェライゼージョンのほうは、いちおう小説としても読める感じに仕上がってはいるけれど、日本人の読者であるぼくたちにとっては、映画をより深く理解するための副読本、という感じでおつきあいをするといいようだ。ストーリーのはこびやシーンのつながりぐあいは映画とほぼおなじだから、観て読んで、また観ると、字幕だけを頼りに1回だけ観たのとは、理解のしかたがずいぶんちがってくるはずだ。

 最初に小説として世に出たペーパーバックのほうは、まず小説として楽しむといいだろう。『クレイマー、クレイマー』『結婚ゲーム』『さよならミス・ワイコフ』『ミッドナイト・カウボーイ』『愛のかけ橋』など原作小説のペーパーバックをぼくはたくさん読んだ。小説としてまず刊行され、それがあとで映画になったのだ。小説としてじっくりと楽しみ、この小説がいったいどのように映画として映像化されるのかをそれから楽しむといいようだ。『さよならミス・ワイコフ』は、1970年に刊行されている。日本語にほんやくされたものとしても読めるけれど、この小説と、最近の話題作であった同名の映画とをくらべてみると、10年間という時代の開きがはっきりとわかる。

 『クレイマー、クレイマー』は、かわいそうね、かわいそうねと泣きにいく映画として日本でもヒットした。エイヴァリー・コーマンの原作小説は、ぼくはまだ読んでいないのだが、かなりちがった世界を描いているのではないのだろうかという気がする。

 『結婚ゲーム』という映画の原作小説、『スターティング・オーヴァー』を、ぼくは面白く読んだ。映画のほうは観そこなったが、友人たちの話によると、軽い感じで観ながすことのできるコメディふうの、大人のドラマだそうだ。

 原作小説も、非常に語り口は軽い。日本の普通の読者だったらなんだか馬鹿にされているように感じてしまうのではないかと思うほどの軽い語り口だが描かれている人間関係は、アメリカ的にきわめて生々しいと同時に、日本では想像もつかないほどに孤独で硬質だ。ひと言で表現するなら、さびしいアメリカ人、ということになるのだろうけれど、こういう人間関係のありかたは、日本人にとってはもっともわかりづらく、しかも不得手とするところなのではないだろうか。だから、わかりやすくさびしいアメリカ人という、ことになってしまうのだ。

 『ザ・ドライバー』『ハリーとトント』『アリスの恋』『タクシー・ドライバー』『サンダーボルト』など、ノヴェライゼーションは、どれもみな軽く読める。観てから、画面を思い出しつつ読むといい。セリフひとつひとつの必然性みたいなものが、うまく納得できるはずだ。『サタデー・ナイト・フィーバー』のノヴェライゼーションなど、馬鹿にしないでこまかく読んでいくと、面白い部分はたくさんある。プロローグをへた第1章の冒頭の部分は、ペイ・リッジのピザ・パーラーの描写ではじまっている。そのピザ・パーラーのカウンターマンは、1960年代にはマンハッタンの東86番通りにある伯父さんの店で働いていた。激動の60年代と言われた、あの時代だ。ピザ・パーラーのカウンターごしに見た、60年代の愛と平和やフラワー・パワーの子供たち、ボブ・ディランやジョーン・バエズといったことがらが、自分が属するワーキング・クラスとの対比のうえで、簡単だけど面白く描かれている。

 このベイ・リッジのピザ・パーラーに、ペンキ屋の下働きである、主人公のトニーが、ピザを買いに立ちよる。三角形に切ったピザのスライスをふた切れ焼いてもらい、このふた切れをダブル・デッカーのようにかさねあわせて持ち、食べながら歩く。ナプキンを丸めてくずかごに投げとばし、ディスコにきて目をつけている27ドル50セントのシャツを洋品店のウインドーで見るという出だしの部分からはじまって最後まで、映画よりもずっときめこまかくできている。

(『ブックストアで待ちあわせ』1987年所収)


1987年 『ブックストアで待ちあわせ』 アメリカ 小説 映画
2016年3月25日 05:30
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