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風に恋した

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「最高だった!」

 と、彼女は、言っていた。

 瞳が、輝いていた。

 瞳が輝くその瞬間、彼女の全身が、生き生きしていた。

 なにがそんなに最高だったのか、ときくと、彼女は、次のようにこたえた。

「うーん、ひとことで言うとね、そう、風なの。風」

「風?」

「そうよ。自分の全身に、風が来るの。風があんなに素敵なものだとは、それまで一度も感じたことはなかったし、思ってもみなかったことだから」

 彼女は、二十五歳になる。

 会社にお勤めのお嬢さん、と言っておけばいいだろう。東京に生まれて東京に育ち、都会的に洒落ていたりけだるかったり、あるいは、ものうかったりするところが魅力の、素敵な女性だ。

 素敵ではあるけれど、二十五歳まで、風を知らなかった。

 風や雨は、彼女にとっては、やっかい者だった。いつもはビル風にしか吹かれたことがなく、風の気持よさをふと感じるのは、たとえば南太平洋の島に旅行したときくらいのものだった。日本へ帰るジェット機に空港で乗ってしまうと、しかし、その風もたちまち忘れてしまっていた。

 そんな彼女が、オートバイに、乗ったのだ。

 自分で操縦したのではなく、友人の友人の、そのまた友人である男性のライダーに、うしろのシートに乗せてもらったのだ。

 梅雨が明け、夏が空いっぱいに広がってすぐに、彼女たちは、小旅行に出た。

 オートバイが二台に、自動車が一台。オートバイは、彼女をうしろに乗せてくれた男性と、その友人が、操縦した。自動車は、彼女の同性の友人が、運転した。つまり、男たちふたりがオートバイでおこなうツーリングに、女性ふたりが自動車でついていく、という旅行だった。

 走る二台のオートバイを自動車のなかからいろんなふうに見ながら、彼女は、ふと思った。よく町で見かけるように、あのオートバイのうしろの席に乗せてもらったらどんなだろうか、と。

 ドライブ・インで休憩して、さあ、また走ろう、というとき、彼女は、ふたりのライダーのうちの、よりいっそう気持のやさしそうなほうの男性に、うしろのシートに乗せてほしい、と頼んでみた。

 彼は、気軽に、ひきうけてくれた。

 ヘルメットなしで、彼女は、うしろのシートにまたがった。

 750cc、4気筒の、現代的な鋭角さを充分に持っている重量車だった。

 シートにまたがった瞬間、自分がはいている華奢なシルエットのディナー・ジーンズがなんだかとても不似合いなものに思えた。外国に旅行したときに買ってきた、お気に入りの、そしてご自慢のディナー・ジーンズなのだが。

「まだ走り出してもいないのに、シートにまたがったとたんに、あっ、これはすごい、と感じたの」

 と、彼女は、思い出すだけでも充分にうれしい、という雰囲気で、語ってくれた。

「またがった瞬間に、予感があったの。なにかとてもいいことがこれからはじまる、という予感。750ccのオートバイって、またがるとすっごく大きくて、どう猛なの。両足から腰をとおって、背中に感じたのよ」

 うしろのシートに乗せてもらい、ライダーの体に両腕でつかまり、走りはじめた。

「最高なの、これが」

 と、彼女は言う。

 それはそうだ、最高にきまっている。じつに多くの女性たちが、こうしてオートバイの魅力にからめとられていくのだから。

「あんなにすごいものだとは、思ってもみなかったから、完全にノックアウト・パンチをくったわね。自分の全身で風や光をかきあつめて走るの。そして、その自分は、オートバイといっしょに、風や光のなかに、むきだしでほうり出されてるのよ。とにかく素晴らしかった」

 視覚でとらえることのできるもの、そして全身の感覚でつかまえることのできるものすべてが、イメージの大洪水だった、と彼女は言う。

 そのイメージの大洪水の中を、風をひっぱり、あるいはひっぱられながら、飛んでいく。

 うしろのシートでライダーの体につかまっているだけでもそれほどに感動的だったのだから、シートの前に乗せてもらったときには、もっとすごかったと彼女は言う。

「こんな素晴らしいものがあるのだということをこれまで知らずにいたのかと思うと、口惜しくて、口惜しくて」

 したがって、彼女は、風のとりこになった。

 そして、風のとりこになってまず最初にやったのは、それまで持っていた自動車を売り払うことだった。休みの日のショッピングにしか使っていなかった自動車だ。

 売り払って手にしたおカネに、多少はあった貯金を加え、借金もすこしして、彼女は、別の自動車を買った。

 屋根のない自動車だ。

 アメリカ製の、それにしてはかなりコンパクトで軽快な印象を持つ車の、オープン・タイプを、彼女は見つけた。自動車に詳しい知人をとおして、非常に程度のいい中古が手に入ったのだ。

 まず第一段階として、彼女は、このオープンの車に乗りはじめた。

「いずれは、かならず、オートバイに乗るの。でも、いまはまだ準備不足だし、いきなり夢に飛びつくのって、はしたなくていやなのよ。夢は夢として、しばらくとっておきたいの。そうすると、夢の純度が、たかまるでしょう」

 やがては必ずオートバイに乗るときのために、彼女は、オープン・カーで風の体験を積むことにした。

 手に入れたオープン・カーで、風を求めてまず最初に旅をしてから、ちょうど一年たった。

 その一年間、彼女は自分が知った風について、チャンスがあるたびに、報告してくれた。

 いろんな場所の、いろんな風について、彼女は語ってくれた。

 彼女が知ったのは、風だけではなかった。風といっしょに、いまの彼女にとっては貴重このうえないさまざまなことを、あわせて知った。

 たとえば。文字どおり、ほんの一例だが。

 昨年の夏の終り、台風と台風とのあいだの、つまりまたすぐに大型の台風が来るというころ、彼女は、四国の太平洋側にいた。

 夏の終りの海風を楽しんでいて、ひとりのサーファーと知り合った。

 大きな河が太平洋に注ぐサーフ・スポットで、台風のさきがけであるうねりに早朝から乗っていたそのサーファーが、夕方、砂浜にあがってきたとき、彼女もそこにいた。

 オフ・ショアの風が海風にかわっていくなかで、サーファーは、波乗りについていろんなことを彼女に語った。

 いまでも彼女が、まるで自分自身でその音を聞いたかのようにはっきり覚えているのは、そのサーフ・スポットの海底にある丸い玉石のおたがいに触れ合う音の話だ。

「姿勢を低くして、波といっしょに飛ぶように滑っていくとき、波の壁のなかから、カチカチカチカチーンと、音が聞えてくるんだよね。なんの音だろうかと思っていて、ある日、ワイプ・アウトしたときに、わかったんだよ。波の力で海底の玉石がビー玉みたいに転がっておたがいにぶつかりあっている音なんだね。ワイプ・アウトして水のなかでもがいていると、外にいるときよりもずっとはっきり聞えたよ」

 そう語って、サーファーは、彼女を見た。にっこり笑って、彼はつけ加えた。

「波は風がつくってくれるのだから、その玉石の音も、風の音だと言っていいね」

 位置の低くなった太陽から深く斜めに射してくるオレンジ色の光に、サーファーは、目を細くしていた。早朝から潮をかぶりつづけた目に、オン・ショアの風といっしょに射してくるオレンジ色の陽が、痛いのだ。

 風のコレクションが、こんなふうにして、ずいぶんたまった。

「オートバイのうしろに乗せてもらう以前の自分が、もうまるで信じられないの。あの頃の自分って、いったいなにが楽しかったのだろうかと思ってしまうわ」

 この一年間、あらゆる季節に、できるかぎりいろんなところへ、彼女は愛用のオープン・カーで出かけてきた。いつも、ひとり旅だ。ひとりのほうが、風を追いかけやすい。ひとりのほうが身軽だからだ。

 彼女の部屋には、日本ぜんたいの大きな白地図が、壁に貼ってあるという。

「風を知った場所を、赤いボールペンで、次々に書きこんでいくの。まだ白さが目立つけど、まっ赤に見えるようにしたいの」

 まっ赤になったとき、彼女は、オープン・カーをオートバイに乗りかえるという。

「そのオートバイの、色だけは、もうきめてあるの。書きこみでまっ赤になった白地図にちなんで、まっ赤なオートバイ。白を、ほんのちょっと、どこかに効果的にきかせて」

 そう言って、彼女は、風のように微笑した。

底本:『ターザンが教えてくれた』角川文庫 1982年

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10月19日|オートバイはぼくの先生


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彼のオートバイ、彼女の島
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一度目は高原の道で。二度目は共同浴場で。
偶然の出会いが2度あった「彼女」は、もう無関係な他人ではない。


1982年 『ターザンが教えてくれた』 オートバイ サーフィン 彼女 自動車
2016年9月3日 05:30
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