アイキャッチ画像

雨の京都で下書きをする

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 久しぶりに万年筆を買った。

 僕との相性の良さを中心に、いくつかの条件をもっとも高いところで満たしているのはペリカンだから、今回もペリカンにした。まったくおなじ種類のを三本。軸もキャップも透明なプラスティックで出来ている、スケルトンと呼ばれているタイプだ。ペン先は中字だ。おなじ中字でも三本それぞれに書き味は微妙に異なる。万年筆はこのあたりがまず面白い。

 三本それぞれに異なる色のインクを入れてみた。気分が替わっていいか、と思うからだ。ブルー・ブラック。ロイアル・ブルー。そして、単なる黒。どれもペリカンのインクだ。ペリカンには万年筆用のインクが八色あるという。おなじスケルトンをさらに五本買い、八本で八色を揃えようか、という思いが頭の片隅になくもない。

 三種類のインクを満たしたこの三本のスケルトン・ペリカンが、いま僕のデスクの上にある。タンクのなかのインクも透けて見えるのだが、どれがどの色だか、手に取って観察するかのように見ないと、インクの色は見分けにくい。おなじ万年筆が新品で三本ならんでいる様子は、たいそう美しくて好ましい。

 この三本の万年筆を使って、僕はこれからノートブックにたくさんの文字を手書きする。そのためのノートブックも、最適なものを手に入れることが出来た。すでに何冊も買ってある。万年筆のペン先と、そこからのインクの流量とが、ノートブックの紙質とどのように好ましい関係を作るか。万年筆のためにノートブックを選ぶにあたって、もっとも重要な点はここだ。フランス製のものに上出来なのがあった。デザインの良さやそこからかもし出される雰囲気なども、必要にして充分という実用的な美しさの勘どころを、さすがに見事におさえている。

 このフランス製のノートブック何冊かに、三本のペリカン万年筆を使って、僕は長編小説をひとつ、初めから終わりまで、下書きしようと計画している。文筆業あるいは著述業として三十五年以上を過ごしてきた僕だが、これまで下書きという作業をしたことがない。新聞に書く一千文字ほどの短いエッセイから分厚い一冊の評論まで、なにであれ下書きをしたことが一度もない。これではいけない、とはけっして思わないけれど、下書きをしてみたくなった。しかも長編小説を、まるごと一冊。

 何冊かのノートブックに下書きが完成したなら、次はそれを推敲していく。推敲には黒いインクの万年筆を使うつもりだが、いまこうして書いていてふと思うのは、推敲に適しているのはアクア・マリーンのような明るい色ではないかということだ。ペリカンのインクにアクア・マリーンは存在する。下書きにはすでに書いた三色を使うことにして、アクア・マリーン用におなじ万年筆をもう一本、買うべきか。推敲にはアクア・マリーンというアイディアは、思えば思うほどいいアイディアとして、僕の頭のなかでふくらんでいく。

 推敲を終え、よし、これでいい、という段階に到達したら、ワード・プロセサーを使って清書する。いっそのこと清書も手書きで、という思いはなくもない。しかし、下書きと推敲の手書きに対して、清書はワード・プロセサーにして均衡をとったほうが、作業としてのめりはりは、もっとも強く効くような気がする。長編小説を一編、最初から最後まで下書きし、それをさらに推敲し終わるまでに、どのくらいの時間を必要とするものなのか。ぜんたいの構成はすでに頭のなかにある。あとはディテールを順番に配列しながら、万年筆による手書きの文字で、ノートブックの紙の上に固定していけばいい。そしてこの下書きの作業ぜんたいを、梅雨のあいだの京都でおこないたい、と僕は思っている。

 梅雨の京都で長編小説の下書き。

 それじたいが小説じみているではないか。昔からある喫茶店を十数軒は知っている。それらをはしごしながら、コーヒーにつき添ってもらって、長編小説の下書きだ。一度に五日から一週間ほど滞在するとして、少なくとも五度は、京都へ出向くことになるだろう。しかも雨の日が続いているうちに。

 下書きが梅雨のあいだに完成したなら、推敲はそのあとに来る盛夏の、おなじく京都でおこなってはどうか。アクア・マリーンのインクの色が、この上なく夏の色ではないか。真夏の京都で古い喫茶店をめぐり歩いては、下書きを推敲していく。鱧の料理を何度か食べることになるのだろう。祇園祭りの夜は推敲のさなかだ。そして大文字焼きの夜が来る頃には、東京でワード・プロセサーを使って清書しているようでありたい。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年


2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 ノートブック ペリカン ワード・プロセサー 万年筆 京都 創作 喫茶店 小説 書く 梅雨
2016年6月12日 05:30
サポータ募集中