アイキャッチ画像

午後の紅茶の時間とは

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 いま僕が滞在を許されているお屋敷では、午後三時になると、三時ぴったりに、僕の仕事部屋のドアにノックの音が聞こえる。はい、と僕が返事をすると、お茶のお時間でございます、いかがなさいますか、とドアのむこうから女性の声がきいてくれる。もの静かで品のある、じつに感じのいい初老の女性の声だ。いただきます、と僕は答える。ご用意させていただきます、とその声は言う。

 三分ほどあとに、僕は階下へ下りていく。居間のてまえにある、居間の三分の一ほどの広さのくつろぎ部屋に入った僕は、張り出し窓のかたわらのテーブルにむかって、ひとり椅子にすわる。二分経過すると、さきほどの女性が紅茶を銀の盆に載せて入ってくる。

 午後三時の紅茶を二杯、僕はそのテーブルで飲む。そのお屋敷にいて仕事をしているときには、毎日欠かすことのない午後の紅茶だ。誰がいれるのか僕は知らないが、その紅茶はたいへんにすぐれた出来ばえだ。砂糖もミルクもレモンも使うことなく、紅茶そのままを僕は楽しんで飲む。

 張り出し窓の外は庭だ。手入れされているようなされていないような、不思議な感じの庭だ。庭と言うよりも、よく出来た美しい公園の、ふとした片隅と言ったほうがいいかもしれない。相当に広い。庭ぜんたいは大きなL字の形をしている。張り出し窓から見えるのは、Lの字の下の一辺に相当する部分だ。

 窓のすぐ外には煉瓦で池が作ってある。池のむこうには梅の老木がある。いまその梅の木からはすべての葉が落ちている。そしてその梅の木に、何種類かの野鳥が飛んでくる。

 なんという鳥だか僕は知らないが、まん丸にふくれたような体のうしろに、根もとから先端までおなじ幅の尾が長く突き出た鳥が、池で水を浴びる。

 池の縁にむけてのびている梅の枝にとまってその鳥はあたりを注意深くうかがったのち、池の水面に飛び下りる。水面に腹を浮かべて、左右の翼を早く動かす。水面に浮かんで腹を水にひたし、翼で自らに水をかけるようにして、ほんの数秒、その鳥は水浴びをする。

 そしてひょいと梅の枝へ戻り、ひとしきり翼を動かして水滴をはね飛ばす。しばらくすると、再び池の水にむけて飛び降りる。水を浴びて梅の枝へ戻る。紅茶を飲みながら観察していると、何度も飽きることなくこの動作をくりかえしている。小鳥の水浴びであることにはまちがいないだろう。自分で水を浴びるからには、水で体を洗いたいのだ。

 いま東京の空を飛んでいると、小鳥の翼は相当に汚れるはずだ。北極に降りつもる雪でさえ、スモッグや煤煙でまっ黒に汚れている。東京の空など最悪なのではないか。

 雨の日に滑空するように飛んでいれば、シャワーを浴びる効果くらいはあるのではないか、などと僕は呑気に考える。しかし空気は常に汚れていて、雨に対してすら汚染というようなものすごい言葉が平気で使用されるのだから、雨も汚れているはずだ。いくら雨の日に滑空しても、シャワーにはならない。池で水を浴びるほかない。

 ひとしきり水を浴びて、野鳥はどこかへいってしまう。その池には金魚が一匹いる。お屋敷の人が言うには、いまから十数年まえ、近所の商店街で夏祭りがおこなわれたとき、縁日の金魚すくいで取ってきた何匹かのうちの、いまも生きている一匹なのだそうだ。

 とても金魚には見えない堂々たる体格だ。バランスはいいし、赤と白の発色も美しい。尾ひれが素晴らしい。白い絹の布で作ったような、複雑なかたちの大きくて立派な尾ひれだ。ゆったりと池のなかを泳ぐとき、その尾ひれが金魚の背後にたなびく。

 池の水は雨水で補給される。そして金魚には、これと言って餌はあげていないそうだ。池の底には枯れ葉その他、有機物が堆積している。一匹だけの金魚にとって、この池は居心地が良いのだろう。

 最近になって僕が気づいたことのひとつは、庭のこの部分は猫のとおり道になっているということだ。外から入って来るさまざまな猫が、池の縁をとおってむこうへ抜けていく。近所の飼い猫たちの散歩道だ。

 ときたま猫が金魚を取ろうとする。紅茶を飲みながら、先日も僕はその光景を目撃した。池の縁にすわりこんだ太った猫が、片手を金魚にむけて水のなかに入れ、怒ったようにかきまわす。金魚は逃げない。猫がさしこんでくる片手のすぐ下にぴたっと体をとめて、平然としている。危害が自分におよぶことがない事実を、金魚はよく知っているのだろうか。僕が池の縁に乗ると、金魚はさっと身をひるがえして逃げる。煉瓦の縁を足で蹴ったりすると、金魚は堆積物の下にかくれる。そのまま見守っていると、やがて出てくる。

 午後三時の紅茶の時間は、たとえば以上のようにして、静かに過ぎていく。

底本:『アール・グレイから始まる日』角川文庫 1991年

今日のリンク|デジタルの光で視る季節|佐藤秀明の写真収録作品刊行

sato_ie

関連エッセイ

6月12日 |雨の京都で下書きをする


5月17日|旅と小説はどのように関係し合うのか


2月6日 |トーストにベーコン・アンド・エッグス、そして紅茶


12月22日 |知らぬ町 雨の一日 冬至なり


10月23日|おいしかった二杯の紅茶


1991年 『アール・グレイから始まる日』 時間 書く 紅茶
2016年9月18日 05:30
サポータ募集中