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キノコ雲の切手

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この作品は、『日本語の外へ』「第1部 アメリカ──遠近法のなかへ」
に収録されたものです。

 第二次大戦シリーズという組み切手を、アメリカの郵便公社は一九九一年から発行してきた。やがてなにかあるかな、と僕は思わないでもなかったが、原爆のキノコ雲が登場したことには、少なからず驚いた。なんという二流以下の判断だろう、という意味での驚きだ。妙なキノコ雲だな、とも僕は思った。少なくとも三種類の写真の合成によるものだということだ。

 この図柄で切手になったなら、郵便物に貼られてアメリカから全世界に向けて発信され、飛び交うことになる。そのときその切手が持つ現実的な意味は、原爆の使用は正しかった、必要ならまた核を使う、ということであるはずだ。必要ならまた使うというのは、冷戦が続いていたときのアメリカの思考だ。

 冷戦が続いていた頃には、原爆記念日になると、アメリカ国内の少なくとも三大ネットワークのTVは、第二次大戦と原爆を中心に特集を組んでいた。コメンテーターが出てきて、必要ならまた使うとも言えないから、戦争の早期終結に導いたというきまり文句を軸に、ああでもないこうでもないと、つまり必要ならまた使うと、核について語っていたのを僕は記憶している。

 戦争を早く終わらせたという肯定的な注釈つきのキノコ雲の図案を撤回したことの、アメリカにとっての意味は小さくない。それはまず第一に、大量無差別殺戮(さつりく)兵器としての原爆を、そのとおりにアメリカは二度使った、という事実の確定だ。そして第二には、原爆によって我々は悲惨な戦争を早くに終わらせ、さらなる犠牲を未然に防いだ、というこれまでの正当化の足場が決定的に近く崩れ落ちたことを意味する。

 切手の図案に対する日本の反応は、国民感情の逆撫(さかな)では不快であり、原爆を使用したことの正当化につながり誠に遺憾である、というものだった。遺憾の念はたいへんに正しい。もっと正しくするなら、アメリカによる原爆の使用を日本は絶対に許していない、と言うべきだった。正しさと同時に、原爆を使用された側の、圧倒的に被害者としての信条の絶対化という、おそらくは終わることのない戦後というものを、あの切手の図案に見た日本の人たちは多かったのではないか、と僕は推測する。

 原爆によって戦争を早くに終わらせ、さらに犠牲者が増えるのをくいとめたという論は、五十年たつと使えなくなっていることをアメリカは知った。そして日本では、その戦争を回避出来なかった能力という、起点についての整理がまだ出来ていない事実が、浮かび上がった。ともに五十年めの進化だ。しかしアメリカにとって独立戦争と南北戦争は完全に聖域であり、第二次大戦もそうなりつつあることは確かだ。

 一八五三年、太陽暦で七月八日、四隻の黒船が江戸湾の入口に現れた。大西洋そして南太平洋で鯨を捕りつくしたアメリカは、鯨が豊富にいた日本近海やオホーツク、ベーリングなどの海を漁場にし始めた。日本を捕鯨船の補給基地にしたいと思ったアメリカは、鎖国をしていた日本に、一方的にそして相当に威嚇的に、開国を迫った。

 開国した日本がそこに発見したのは、ヨーロッパの列強がくりひろげる最後の帝国主義戦争の時代だった。当時の日本は江戸を中心に独自の文明を高めきっていた。アジアの一角の小さな日本は、アジアの他の部分とくらべると信じがたいほどに、アジアの他の部分とは別な国になっていた。それほどまでに江戸の文明は高度なものだった。

 だからヨーロッパからのものを、キリスト教は別として、日本は難なく受け入れて自分のものにし、それを強国作りに役立てることが出来た。鎖国の江戸ですでにアジアとは言えないほどに文明を高めていた日本は、開国してアジアから脱出し、ヨーロッパ列強の帝国主義戦争に入っていった。そのコストの、あまりの高さの象徴が、キノコ雲だ。

 アジアからは日本だけが帝国主義の戦いに参加したこと、そしてアジアの他の部分は、帝国主義国家による領土をめぐる戦いの犠牲者であり続けたこと。このふたつのなかに、日本とアジアとの関係の難しさの出発点がある。難しさはいまも続いている。これからも続くかどうかは、日本にかかっている。脱アジアによって他のアジアを犠牲者にした。この二重の反アジアのなかに、日本の戦後は続いている。

 戦後という言葉は、いま僕が使っているような文脈では、途方もないコストを支払って敗戦国となった直後の日本の、貧困と混乱をまず意味している。と同時に、その次の意味は、そのような状態から脱出するための前進力の時期、つまり戦争なんてもうまっぴら御免、これからは平和だ、民主主義だ、経済復興だ、国の作りなおしだ、となった時期の日本、という意味を持つ。

 そしてそのような戦後に対して、一九五六年に、もはや戦後ではない、と日本の経済白書は宣言した。一九六〇年には所得倍増計画が発表され、その後の十年間でその計画はほぼ現実となった。七二年には沖縄が返還され、二度の石油危機を日本は乗り越えた。安保は国際的に承認を得た。七六年には戦後生まれの人が五十パーセントを越えていた日本は、経済大国となった。

 戦後は終わったかに見えた。戦後の風化、ということがしきりに言われた。学校の教科書からキノコ雲が消えたことが、問題になったような記憶が僕にはある。終わった戦後は確かにある。上野の地下道に浮浪児はもういない。闇市もない。終わっていない戦後は、すでに書いたとおり、アジアの全域で終わっていない。

 徹底した非軍事。自分の国は自分で守るための再軍備。まずなによりも経済復興。この三つの選択肢のなかから、戦後の日本は経済復興という路線を選んだ。その路線を進むにあたって、アメリカはなくてはならない強力な手助けだった。すでに始まっていた冷戦のなかで、アメリカの意図に沿うべく、日本は小さな軍備を持つことにした。安保はいまも継続されている。安保を軸にして軍備についての考えかたがいくつかに分かれるという構造も、変わることなく続いている。いわゆる政界再編成に、それは影響力を持っている。戦後はここでも続いている。

 アメリカは日本にとって巨大なマーケットでもあった。いまの日本が経済大国なら、その力はアメリカの赤字のなかに根を持っている。日本にとっての輸出先として、現在ではアジアの果たす役割がアメリカのそれを越えている。いかに安く作って大量に売るか。アメリカに対しておこなってきたことを、日本はアジアに対しても繰り返すのだろうか。もしそうだとしたら、いつか来た道とはそのことだ。

 アジアは自分にとって巨大なマーケットである、と日本が考えているのだということは、アジアにおける日本の経済活動を見ればよくわかる。マーケットであること以外のアジアに関して、日本がどのような構想を持っているのか、アジアでどんなことを実現させようとしているのか、まったくわからない。そのようなことについて、日本からなにも聞こえてこないし、日本はなにも言っていない。不安や争いが起こるのは国や地域間の経済格差が原因だとするなら、それを埋めるための日本の役割の全体像くらい、とっくに明らかになっていていいはずだが、それはどこにもない。

 戦後五十年、という言いかたがある。戦争が終わってから五十年、という単純な意味とともに、五十年たってもまだ続いている戦後、という複雑な意味も、その言いかたは持っている。そしてもうひとつ、その五十年間はほぼ冷戦の期間だったのだから、昨日までの敵が巨大な庇護(ひご)者へと変化しただけで、じつは日本は戦後など本当はなにひとつ体験していないのだ、という意味だって考えることは充分に可能だ。

底本:『日本語の外へ』角川文庫 2003年


2018年8月5日 00:00