アイキャッチ画像

英文字は急速に日本語になりつつある

縦書きで読む

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

003_01_cover

〈書評〉キャサリン・A・クラフト著 里中哲彦編訳日本人の9割が知らない英語の常識181

 日本人の9割が知らないという英語の常識が、181項目も説明されている。常識を知らなければ、その英語は間違いだらけだ、ということになる。まず初めの項目である001を読んで、二十数年前のことを僕は思い出した。

 当時しばしば仕事をともにした中年の男性編集者はよく眠る人だった。何人かで夕食をともにしていると、彼だけ壁によりかかって眠っていることが何度もあった。新幹線に乗って西へ向かうときには、隣の席にいる彼は早くて品川で、眠っていた。小田原では完全な白川夜船で、そのまま眠りとおし、山科のトンネルを出て目を覚まし、窓の外を見て、「ここはどこですか」と言うのだ。

 目的地の京都まであと数分だと知ってなぜかはにかんだように、「寝ちゃいましたよ。英語だと、ホエア・イズ・ヒアですか」とかつて彼が言ったのを、二十数年ぶりに思い出した。本書のいちばん最初の項目が、日本人が言うところの、ホエア・イズ・ヒアだったからだ。

「ここ」はhereだ。「どこか」がwhereで「です」はisだとすると、「ここはどこですか」という日本語はめでたく直訳されて、ホエア・イズ・ヒアとなる。ただし、ホエア・イズ・ヒアは、音声では別にどうということもない、平凡な英語だ。

 夫婦がともに家のなかにいて、妻がどこにいるのか知りたくなった夫が、どこにいるのだい、と訊く。ここよ、と妻は答える。きみが言うこことはどこのことなのか、という意味で、ホエア・イズ・ヒアと夫は言う。文字で表記するときには、hereをクオーテーション・マークスで囲まなくてはいけない。

 トンネルを出てから京都駅に停止するまでの短い時間のなかで、僕は彼にこのようなことを説明した。彼はわかったような、よくわからないような顔をしていた。本書の001項目を読み進めると、このような説明まで二十数年前の僕の体験と、まったくおなじであるのがなぜかうれしい。

 本書を最後まで楽しく読んだひとりとして私見を述べる。「英語の常識」とは、英語のルールのことだ。誰もが従うべき共通のルールだ。それを「日本人の9割が知らない」ということは、ほとんどの日本人が共通のルールというものを無視する、軽視する、そんなことどうでもいい、と考えてそのとおりにしている、ということにほかならない。

 共通のルールを学んでそれをそのとおりに使えば、おかしな英語、とは言われずにすむはずだ。しかし共通のルールは無視される。もっとも重要なのはその人のそのときの気持ちだ。したがって、日本語のなかの単語ひとつひとつを、自分の知っている範囲のなかで、英語の単語へと置き換え、つまり直訳して、これが英語だと信じて疑わない、というやっかいな問題がいたるところで生まれる。

 一例として179項目目に著者があげるGrand OpenあるいはRenewal Openについて言うなら、この言いかたはどちらも、街のなかでしばしば目にする。Openという言葉に関するルールを心得てさえいれば、こうはならない。一見したところ英語のようだがじつはまったくそうではない、こうした英語表記は、じつはいまや日本語の一部分になっている、という私見も披露しておきたい。

「新装開店」という日本語表記は、Renewal Openという英文字による日本語表記でもあり、両者はおなじ日本語なのだ。英文字で表記されているから、という理由だけでそれを英語としてとらえてはいけない、という発見を僕は昨年やっと体験した。遅すぎる、と思う。日本語は進化している。漢字、平仮名、片仮名に加えて、英文字が、相当な勢いで日本語になりつつある。

出典:『週刊朝日』2018年4月20日号


2018年6月18日 00:00