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世界でいちばん怖い国

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 カーヴした静かな道からかなり高くなったところに、いまの僕の仕事場の建物がある。道の側にあるいくつかの窓から、カーヴしているその道のいくつかの地点を、それぞれ見下ろすことが出来る。ふと窓の前に立ち、なにげなく道を見下ろすと、老人が歩いている。見ていると次々に老人が道にあらわれる。どう見ても老人にしか見えない人たちが、いかにも老人の服を着て、たいそう老人らしく歩いていく。

 おなじ年齢の女性たちにくらべると、男のほうがはるかに老人的だ。老人は男性名詞だ。歳をとった男性、それが老人だ。年配の女性たちも数多く歩いていくが、窓から見下ろす僕の視野に入ったその女性を、老人、と認識することは少ない。男の場合だけ、ああ、老人がいく、と僕は思う。

 仕事場の窓からふと下の道を見て、そこを誰も歩いていないとき、ものの二分か三分も待てば、ほぼかならず老人が歩いていくのを、見ることが出来る。仕事場のあるあたりには、ことのほか多くの老人が住んでいるのだろうか。仕事場から駅まで、歩いて三分ほどだ。所要時間三分のこのコースを歩くあいだにも、ひとりやふたりの老人と、かならずすれちがっているように僕は思う。多いときには五、六人にもなる。

 各駅停車の上り電車に乗っていると、駅に停車して開いた、僕にもっとも近いドアから、かなりの頻度で老人が乗ってくる。駅ごとに、おなじドアから、ひとりまたふたりと、老人が乗ってくる。やや誇張はあるが、その誇張は、たったいま書いたとおり、やや、でしかない。

 老人が増えている。これは確かだ。これからもっと増える。日本は老人の国になる。この国で老いていく多くの人たちの、命運やいかに。ロマンス・グレーという言葉とその意味については、すでに書いた。素敵なおじさま、という言い換えについても、そこで触れた。急速に老人の国になっていく日本の本質とつながった言葉を、さらにいくつか、出来ることなら時代順に、僕は思い出そうとしている。

 夕暮れ族とは、初老の男たちのことではなかったか。フルムーンというのもあった。老年は実りの年齢であると希望的に解釈し、そこへさらに満月という比喩を片仮名であてはめた、かなり凝った言葉だ。シルヴァー。そして実年。じつねん、と平仮名で入力して変換すると、僕のワープロは迷うことなく、実年を画面に出す。それから、熟年。

 シルヴァーや熟年という言葉は、定着した感がある。実年も引き続き使われているようだ。これらの言葉は、老いていくことを、そして老いてしまったことを、なんとかそうとは言わずに、老いになんらかの価値を見よう、あるいは見ているように装いたい、という願望のこもった言葉だ。日本が急速に老人の国へと向かっている事実を認識しているからこそ、このような言葉を人々は使い始める。

 おやじという言葉が、中年男性一般の意味で、主として若年層に使われるようになったのは、いつ頃からだったか。父親という意味でもあるこのおやじという言葉が、嘲笑、侮蔑、憎悪などの気持ちをからめて、中年男性一般に対して用いられるようになったという日本の事実は、興味深い。

 この事実は、新聞ふうに言うと、父親の権威の喪失や家庭の崩壊などと、緊密につながっている。中年男性たちが若い人たちから、なぜおやじと蔑まれるのか。中年男性とは、日本ではサラリーマンだからだ。蔑まれているのは、サラリーマンの国である日本なのだ。

 父親の権威はなぜ失われるのか。彼らがサラリーマンだからだ。日本は会社立国の国であり、サラリーマンの文化だ。そのサラリーマンがもはや決定的に蔑まれている。日本が日本人によって、容赦なく侮蔑されている。

 おじさま。おじさん。おやじ。おじん。高度成長を会社の内部で支えた人たちの価値の推移を、この四つの言葉は見せてくれる。おじさまから、おじんへ。なんというあっけない崩壊ぶりか。日本という会社の国も、これとおなじように、あっけなく崩壊するのだろう。

 中年男性。中年男。初老の男。そちらの年配のかた。四十男。五十がらみ。五十面下げて。六十の坂を越える。年寄り。お年寄り。こういった言葉は、俗世間ではいまも現役だ。行政の末端では、中高年層とか高齢者といった、冷たくて一方的な漢字言葉が常用語であると同時に、時と場合によっては、シルヴァーや実り、ゆとりなどという言葉も使われる。

 この文章のなかで、老人という言葉を、僕は使ってきた。この言葉には固さが常にあることは否定出来ないし、冷たさだって充分にまといつけている。歳をとった状態の人を、ごく普通になんと呼べばいいのか。歳をとった人たちによる自分自身に関する自覚と、出来るだけ大きく重なり合った言葉がいい、と僕は思う。

 まだまだ若い人たちには負けないよ、という台詞が紋切り型のひとつとしてある。まだ負けない、と本気で思うときがほんの一瞬あるかもしれないが、現実としてはただそう言っているだけであり、当人による本当の自覚は、俺も歳をとったなあ、という痛感であるはずだ。

 歳をとった人、という意味の言葉でもっともいいのは、年寄り、という言葉のようだ。そういうことは年寄りに訊いたほうがいいとか、年寄りを馬鹿にしちゃあいけないというふうに、年寄りの知恵という価値に添う言葉であると同時に、年寄りがなにを言う、年寄りは邪魔だ、年寄りはいらない、といった言いかたとも、緊密に結びついて離れない。

 年寄りという言葉においては、老人の持つプラスとマイナスとが、無理なく均衡している。老人には年寄りという言葉を使うといい、と僕が思う理由はここにある。年寄りという言葉は、ずっと昔から使われてきた。そしていま老人に対して年寄りという言葉を使うと、その言葉だけ時代をさかのぼり、昔の老人がしばしば持っていたかもしれない価値を、ふと想起させる。

 年寄りという言葉が、いまでは、ごく軽く違和感をかもし出す。いまの老人に対して、年寄りという言葉は、どこかふさわしくない。いまの老人は、昔の年寄りではないからだ。いまの老人は、昔の年寄りが持っていたかもしれないプラスの価値を、感じさせない。いまの老人もなんらかのプラスの価値を持っているはずだとして、そのような価値の居場所が、いまの社会にはない。だから年寄りは消えた。

 本来は父親の意味であるおやじという言葉が、いまの中年男性一般に対して、憎悪や敵意を込めて若年層によって用いられているのとおなじ質の出来事として、年寄りという言葉でいまの老人を言いあらわすことが出来なくなった。なにかほかの言葉はないか。じじいしかない。だからじつに多くの人たちが、じじいと言っている。おやじが歳をとれば、じじいになるのだ。

 歳をとること、歳をとった事実、歳をとった人たちが持つはずの価値などは、戦後の日本で急速に下落した。会社立国のサラリーマンの国で、現役のときからただのサラリーマンでしかなかった人たちは、なにかあれば会社に逃げ込めばそれでよかった。定年退職するとサラリーマンですらなくなるのだから、価値の下落は決定的だ。毎年、大量の定年退職者たちが、会社から社会へと送り出されてくる。彼らが価値の下落を支え続ける。

 シルヴァー。実年。熟年。こういった言葉は、そう言っておいたほうが都合がいいときに、用いられる。サラリーマンの定年後を、実りや熟しの歳月だと本気で思っている人は、ごく少ないはずだ。シルヴァーにいたっては、「英語でも白髪のことはシルヴァーって言うんだってね」という程度の言葉だ。

 なんらかの都合のための、こういった言い換え言葉に、だまされてはいけない。面倒だからこう言っておこう、こう言っておけば多少はいい気分になるだろう、という程度の意図のもとに言い換え言葉は使われる。そして行政の末端の常用語である、中高年層や高齢者という冷たい漢字言葉のほうに、もっと注目すべきだ。

 注目してなにがわかるのか。日本における老いのたどりつく先は、日本における死のありかたであるという、厳然たる事実がよくわかる。死に関しても、さまざまな言葉が生まれた。冷たい漢字言葉が多い。いかに言い換えても死は死であり、言い換えてもどうにもならないのが、死というものだ。

 過労死は会社が平気で犯して国家が許容する犯罪だ。安楽死。尊厳死。そして脳死。安楽死とは、つらい延命装置をはずし、このへんで楽にしてくれ、してあげましょう、ともたらされる死だ。もたらしたいと切に願っているのが、死ぬ当人である場合が多いかもしれないことを承知したうえでなお、安楽死が早められた死であることには、変わりない。

 尊厳死は安楽死とつながっている。闘病中の生活にある程度以上の質を求めると、それはクオリティ・オヴ・ライフだ。おなじことを死に対して求めると、その場合のクオリティには尊厳しかあり得ない。自分の命はここまでであるとはっきり認識して決断し、では本当にここまでと宣言してそのとおりにすることのなかに、尊厳という唯一のクオリティが宿る、という考えかただ。異論を唱えるのは難しい。しかしこれもまた、早められた死であることは確かだ。

 脳死は、こうなったらもう死んだも同然です、回復する可能性は事実上のゼロですと、決定的な一点がきめられることによって実現する死だ。だからこれも早められた死だ。早めずにおくことにどれほどの意味があるのかという問題とは別に、これも早められた死であることは確かだ、とだけ書いておく。

 早められた死が個人の問題にとどまるなら、そこにどんな問題が起こってもそれは個人のものだという考えを作ってしまうと、個人の問題とは反対側の位置に、国家によって許認可された制度としての早められた死、というものが成立するときが来るのではないか。

 ここまでで結構です、と当人が決定する死が権利なら、もうさんざん生きたのだからまわりの迷惑も考えて、適当なところで終わりにしてはどうか、という催促にどう答えるかが義務となる。適当なところで死ぬ義務というものが、いつどんなふうに、世のなかに出てくるか。ここまでで結構です、と当人が決定する死よりもずっと前に、そろそろなんとかしましょうかと打診される死まで、じつはあとほんの二、三歩のところまで、来ているのではないか。

 このあたりで結構ですと言うのは当人ではなくてもいいという法律が出来れば、死ぬ義務は制度となる。このような制度において、日本は世界でもっとも先進的な国になるのではないか。老人の国になっていく日本は、このような制度の可能性を、こぼれ落ちるほどに大きくかかえている。

 まさか、と多くの人は思うだろう。サラリーマンの国である日本で、早期定年退職が制度になるかもしれない。このへんでどうですか、と早められる定年だ。早められる死と、まっすぐにつながっていないだろうか。定年と死とでは問題がまったく違うよ、と笑ったり怒ったりする人は多いだろう。出来事のいちばん外側だけを見るなら、両者はずいぶん違っている。しかし、出来事の内部のもっとも深いところでは、質は同一だ。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年


『坊やはこうして作家になる』 サラリーマン 会社 年寄り 老人
2017年8月31日 00:00
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