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『日米会話手帳』という英語

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『日米会話手帳』という出版物について僕が初めて知ったのは、いつのことだっただろう。二十代の前半ではないか、という推測はもっとも妥当だ。それ以前にすでにこの本について知っていた記憶はない。戦後世相史のような記述のなかで、瓦礫の山だった戦後の日本で最初のベストセラーとなった出版物、というようなごくありきたりで間接的な知りかたを、僕はまず体験したに違いない。

 昭和二十年、一九四五年八月に、戦争は日本の敗戦で終わった。そしてその年の十月に、『日米会話手帳』という本は出版された。それから十二月までのあいだに、つまり出版されてから三か月ほどの期間に、『日米会話手帳』は三百六十万部を超える部数を売り上げ、戦後の日本での最初のベストセラーとなった。そして、類似の本がたくさん登場したことを理由に、『日米会話手帳』は昭和二十年かぎりで絶版になった。

 八月までは一億総火の玉とか本土決戦などの戦争をしていた事実を考えると、敗戦の決定から二か月で『日米会話手帳』を製作して市販する作業は、かなりの早業だ。早業そのものは具体的な作業でしかないから、二か月もあれば充分に可能だ。しかし、転換という文脈で考えると、ものすごいまでの大転換ではないだろうか。僕にとってはまずこのあたりが、『日米会話手帳』を理解するにあたっての、第一の関門とも言うべき謎となっている。

 いかなる転換も、人の頭のなかでは一夜にして可能だとするなら、どんな転換があってもさほど驚くには値しない。『日米会話手帳』は、いちおうは英語の勉強のための本だ。あのすさまじい戦争に徹底的に負けた直後という状況のなかで、三百六十万部という売り上げを支えた圧倒的多数の日本人が、いかなる目的やかたちであれ英語を勉強しようと考えたのだととらえると、それはそのまま『日米会話手帳』という謎になってしまう。なにのために、いったいなにを思って、彼らは英語を勉強しようとしたのか。

『日米会話手帳』の現物を、僕はリアルタイムでは見ていない。残念ながらまだ幼すぎた。二十年ほど前、古書の展示即売会で見たときのことを、いまも記憶している。正方形に近いかたちの、本と呼ぶよりもごく薄いパンフレットのようなものだった。その現物の記憶をたどりながら考えていくと、謎は少しずつ解けるような気もする。僕が見た現物は、充分に古びて汚れ、いたるところ破れた、きわめて貧相なものだった。これがあれなのか、というのが僕の受けたもっとも大きな印象だった。

 あらゆる物資が底をつき、人々の生活は困窮をきわめていたと言われている時代の出版物だ。新品の状態でも、いまの基準で見るなら、たいそう粗末なものであったはずだ。それが時をへて劣化していくだけではなく、おそらく何人もの手をへて、汚れたり破れたりしていく。僕が見た『日米会話手帳』の粗末さや古びた状態から、こういったことすべてを差し引かなければならない。引くべきものをすべて引くとそこに残るのは、ページ数の決定的な少なさだ。全部で三十二ページだったという。

『日米会話手帳』の現物を手に入れようと思って、僕は古書店のネットワークをあたってみた。その途中で、『「日米会話手帳」はなぜ売れたか』(朝日新聞社編、朝日文庫、一九八八年)という文庫が出版されていることを知った。さっそく手に入れてみると、『日米会話手帳』の全ページが写真で復刻してあった。薄いパンフレットのようなもの、という僕の記憶は正しかった。そして正方形に近いかたちには、合理的な理由があった。一ページのスペースの左側には日本語の文例が縦にならび、それに対応する英語文が右側のスペースにならんでいる。

『「日米会話手帳」はなぜ売れたか』という本には、『日米会話手帳』全ページの復刻のほかに、出版時の周辺事情を解説した文章と、何人かの人たちによるエッセイが収録してある。言葉を肉体の営みとしてとらえることの出来る人たちふたりないしは三人のエッセイは、興味深く読むことが出来た。周辺事情の解説はたいへん参考になった。そして『日米会話手帳』の本体だが、これはきわめて純朴な種類の善意による産物だ、とまず書いておきたい。英語でつけてある題名によって、「手帳」とは「マニュアル」の意味であることがわかる。

 ぜんたいは三つに分かれている。「日常会話」「買物」「道を訊ねる」の三つだ。いまの日本でも盛んに出版されている、多くの英会話教本の基本構造は、ここにあるこの三本の柱だ。片言の外国語が端的に役に立つ一般的な状況は、買い物をするときと道を訊ねるときなのだ。このふたつを、誰もが日常のなかで使うはずの、ごく普通の言葉のあれやこれやで和えると、英会話の勉強本の基本形が出来る。

 第一部、「日常会話」の、第一ページ。左の列には次のような日本語の文例が提示してある。

「有難う」
「大変有難う」
「今日は」
「お早よう」
「今晩は」
「お休み」

 これに対応する英文が右の列にならんでいる。英語の文例はどうでもいいと僕は思うから、それらについては省略したい。英語にはどれも片仮名がふってある。「ハウ・ドゥ・ユ・ドゥー」という英文には、ハウ・ディとある。そして括弧して、ハウ・ディ・ドウと添えてある。「グッド・イーヴニング」に添えた片仮名は、現実の音の感じをよく写していて興味深い。グ・ディーヴニンという片仮名だ。グッド・イーヴニングと言うよりは、このほうがはるかにつうじるのではないか。

『日米会話手帳』のいちばん最後のページには、四か条のただし書きがある。その三番めは次のように言っている。「英語を全く知らない人のために片仮名で発音を付したが、是は近似的のものであるから自分でよく聴いて是を覚える要がある」

 驚くべきことに『日米会話手帳』は、英語をまったく知らない人を、主要な読者に想定していたのだ。英語をまったく知らない日本人のための、敗戦と占領とによって身近になるはずのアメリカとの、まず最初のインタフェイスが、全三十二ページのこの「手帳」だった。

 いまの日本では見かけないような発音用片仮名を、第一部に限って拾ってみたい。僕の目にとまるのは、次のようなものだ。いまの日本での一般的な片仮名書きを、括弧のなかに添えておく。

 ドン(ドント)
 ドゥイゥ(ドゥー・ユー)
 イティズ(イット・イズ)
 ウォット・キャナイ・ドゥ・フォリュ(ホワット・キャン・アイ・ドゥー・フォ・ユー)
 テイ・キヨゥ・スィート・プリーズ(テイク・ユア・シート・プリーズ)
 ウェヤリ・ザ・トイレット(ホエア・イズ・ザ・トイレット)
 キャニウ・スピー・キングリッシュ(キャン・ユー・スピーク・イングリッシュ)
 ソリ、アイム・イナ・ハリ(ソリー、アイ・アム・イン・ア・ハリー)
 レイタ(レイター)
 オーレディ(オールレディ)
 ノッチェット(ノット・イエット)
 アンダ(アンダー)
 アニヤン(オニオン)
 シュガ(シュガー)
 ポテイトウズ(ポテト)

 片仮名書きされた音は、いまのものよりも昔のもののほうが、音としてはるかにつうじる。相手が喋っている英語の音を、可能なかぎり自分も真似し、その音に出来るだけ近いかたちで片仮名書きしようという素朴な態度は、明治の開国期から少なくとも敗戦直後までは、維持されていたようだ。

 第二部は買い物をめぐる日米会話だ。最初のページにある日本語例文は次のとおりだ。

「いらっしゃいまし」
「どうぞお入り下さい」
「何を差上げませう」
「きれいな人形を下さい」
「それはいかがですか」
「どちらに致しますか」
「是は何ですか」

 なんとなく一軒の店が想定してあり、そこにアメリカ人が入ってきて、日本人の店員や店主が応対する、という状況設定となっている。アメリカを相手に戦争してそれに完敗するという関係が終わった次の日から、占領米軍にみやげ物を売るという経済関係が始まった。

 英語文例のほうには、明らかに間違っているもの、そして見当違いのものが、ときどきある。「きれいな人形を下さい」という台詞には、泣けるものがある。当時を思い出し、実際に目に涙をためる人がいるかもしれない。敗戦直後の日本にとって、全国津々浦々で女性たちが夜を日に継いで手作りする日本人形は、もっとも確かな輸出品目だった。そんな時代があったということを、ずっとあとになって僕は知った。ハワイに住む日系人の自宅で、居間の飾り棚にある日本人形を見ていた僕に、その家の主人がそんな話をしてくれた。

 この第二部「買物」では、短い文例がさらに八ページにわたって続いている。そのあとには、簡単な領収書の英語による書きかたの例と、知っていればなにかと便利だろうと誰かが思ったいくつかの単語が、列挙してある。

 第三部は「道を訊ねる」という会話世界だ。例文を日本語のほうだけ、僕はすべて引用したい気持ちだ。例文のつらなりのなかに、昭和二十年の日本が写し取られている。この日本を、僕はかすかに知っている。

「郵便局はどこですか」
「此辺の者でないので知りません」
「あそこの交番でおききなさい」
「もう一度言って下さい」
「それならあそこです」
「ここがさうです」
「一寸伺ひます」
「銀座へ行くのはどの道ですか」
「此道は銀座へ行きますか」
「さうです」
「ここはどこですか」
「ここは尾張町です」
「真直ぐ御出なさい。真直ぐ行って左に曲ると右手に白い建物があります。それが郵便局です」
「では一緒にいらっしゃい。お教しへしますから」
「駅迄戻ってもう一度お聞きなさい」
「どうも有難う」
「どういたしまして」
「次の汽車は何時ですか」
「八時半です」
「もう間に合ひません」
「次のをお待ちなさい」
「大分遅れる様です」
「車掌にお聞きなさい」
「この道はいい道ですか」
「どちらへ曲ればいいか」
「自動車屋へつれて行ってくれ」
「私には直せません」

 以上が例文のすべてだ。そしてそのあとに単語のページが続く。

 汽車がだいぶ遅れるという台詞は、当時の日本社会の状況をそのまま映している。列挙された単語のなかにも、当時というものが点在している。憲兵。海軍保安隊。歩哨。終戦連絡委員会。慰安所。司令部。十分間停車。汽車の「上り」はアップ・トレインとなっている。「下り」はダウン・トレインだ。「東京行き」はこのときすでに、いまとおなじく「フォ・トウキョウ」、そして東京発は「フラム・トウキョウ」と言いならわしていたようだ。

『日米会話手帳』を通読してまずひとつはっきりとわかるのは、敗戦そして占領によってアメリカ兵およびアメリカ人が日本へやってきて、彼らのほうから先に言葉が発せられ、それに対して日本人がにわか仕込みのワン・センテンスないしは単語で対応していくという構造が早くもそこにあった、という事実だ。日米会話の大前提は、日本人が受け身にまわることだった。

 徹底的に敗れて戦争は終わり、さあ占領だ、ということになった。その占領はどうやら平和のうちにおこなわれるとわかると、徹底抗戦や玉砕などよりは占領のほうがはるかにましだ、と庶民は思った。そして占領とは、受け身の最たるものではないか。アメリカ兵とアメリカ人が大挙して日本へ入ってくる。迎える側の自分たち日本人には、少しでもいいから英語の知識が必要だ、と庶民は思ったのかどうか。

 しかもその英語の知識は日米会話のためのものだった。「米」という言葉によって、会話相手はアメリカに限定されている。つい昨日までのアメリカ人たちは、鬼畜と呼ばれて鬼や畜生だった。一夜明ければ、彼らは片言の英語による会話の相手だ。なぜこうなったのか、僕にとってはまだ謎だ。

『日米会話手帳』の英語によるタイトルは、「アングロ・ジャパニーズ・カンヴァセーション・マニュアル」となっている。タイトルからして方向はアングロからジャパニーズへ、つまり米英が先に言葉を発し、それを日本が受ける構造になっている、とまで書くのはこじつけに過ぎるだろう。

 例文を英語に訳した人は、西洋古代史を専攻していた東大の大学院生だったという。彼の身のまわりには、英和辞典をはじめとして、外国語を日本語に直して理解するための辞書類が、たくさんあったはずだ。日米という言葉を英語にするとき、いつも目にしてすっかりなじんでいる、アングロ・ジャパニーズというような言いかたが、なんの他意もなしにただ反射的に出てきただけ、という可能性は大きい。

 玉音放送の日が八月十五日。『日米会話手帳』の印刷は十月一日、そして発売日は十月三日となっている。思いついてから原稿を作り、印刷して本にしたものを市場に出すまでに、ひと月と半分。対応力の早さは理解出来るし、具体的な作業も、印刷用紙がなかなか手に入らないというような当時の事情を考慮するとしても、驚くべき早さというほどでもないだろう。例文や単語を英語にする仕事をいま僕が引き受けたなら、集中してもしなくても、作業は半日かからない。

 真に驚くべきことは、その年の暮れに絶版となるまでに、三百六十万部が売れたという事実だ。売れたという事実は、買った人がいたという事実だ。全国的に、全国民的に、ひとつの家庭に一冊、というような売れかただったという。この本をめぐる当時の事情を直接に知っている人たちが、そう語っている。

 この本が、いかにして広く知れ渡ったのか。いまよりはるかに強力だったと推測出来る口こみで、情報は広まったのか。宣伝はされたのか。もしされたなら、どのような宣伝があったのか。媒体は新聞とラジオだ。全国の書店の店頭に現物をならべるのが、もっとも強力な宣伝だったのかもしれない。売れたからには大きな話題になったはずだ。話題はどのようにして人々のあいだに広まったのか。

『日米会話手帳』を出版した出版社の当主が、この本を発想し製作した。「拙速主義」の「じつにお粗末なもの」と、彼は書いている。そのとおりだ。「知っていればなにかの時に役に立つような、最低限の例文」とも彼は書いている。これもそのとおりだ。そしてなにかのときとは、日本を占領しにくるアメリカ人との、接触の機会であったはずだ。

 日本の人たちが二か月半ほどの期間のなかで、一冊の薄い本を三百六十万部も買った事実からごく普通に考えていくと、片言でもいいから実用的な英語の知識の必要性を、彼らはよほど切実なかたちで自覚していたことになる。絶対に必要なのだと確信していた、と言ってもいい。

 アメリカ、オーストラリアその他、日本に駐留した占領軍とその関係者たちの数は、もっとも多い時期で四十三万人に達した。市井の日本人にとって、この数は多かったのか、それともさほどでもなかったのか。占領軍との接触は、たくさんあったのか、ほとんどなかったのか。場所や事情によって、大きく異なったことだろう。一般論は成立しないかもしれない。

 占領するために日本にやってくるアメリカのイメージが、途方もなく巨大だったと考えるのも、謎解きとしては妥当な方向のひとつだ。敗戦の夜が明けると、アメリカを光り輝く巨大なものとして、日本の人たちはイメージした。なぜそうなったのか、いくら考えても僕にはわからない。

 敗戦以前、特に戦中の生活状況のひどさを鏡にしてアメリカをとらえると、戦争は終わったという解放感のなかで、アメリカのイメージが急激に大きくふくれ上がったとしても、それじたいはなんら不思議ではない。しかし、そこから日米会話に結びつく道すじを、僕は見つけることが出来ない。

『日米会話手帳』があれほどのベストセラーになったのは、日本全土に対してアメリカがおこなった爆撃の、間接的な成果のひとつだという説がある。説のための説、つまりこの文脈では冗談の一種だと理解したい。じつに多くの日本の都市に対して、おこなう必要のほとんどない爆撃を、アメリカは徹底的におこなった。日本は壊滅した、と言っていい状態となった。しかもその爆撃は無差別、つまり市民の大量殺戮だった。実態を少しでも知るなら、この爆撃は国際的に中立な場で正式に厳しく裁かれるべきだ、と誰もが思う。

 この爆撃で日本の都市はすべて灰になり、本も焼けてしまったから、いったん戦争が終わって本が出版されるようになると、本に飢えた人たちは争ってそれを買ったのだという説を成立させるには、『日米会話手帳』は内容に乏しすぎる。本に飢えた、という種類の人たちを、これで満足させることは出来ない。

 市販が始まってから三か月ほどのあいだに、『日米会話手帳』が三百六十万部を売り上げた出来事を、単独性の強い一回きりのものとしてとらえず、前後の時代と深く結びついた、したがって必然性のある出来事としてとらえるといい、ということに僕は気づいた。「なにかの時に役に立つ」かもしれないという程度の内容の、「拙速主義」による「じつにお粗末な」薄くて小さな冊子だったからこそ、『日米会話手帳』は売れたと僕は考える。売れたあるいは買ったという事実の基本にあったのは、おそらくは誰ひとり自覚していなかったはずの、言葉というものを嘗めた態度だ。嘗めたという言いかたが言い過ぎなら、言葉というものに対する、純朴きわまりない種類の安易な態度、といった言い換えをしてもいい。

『日米会話手帳』が百科事典の一冊ほどの大きさと重さとページ数だったなら、それは絶対に売れなかったはずだ。生活物資は極端に不足していたようだから、そのような本を作ることじたい、不可能だったろう。それに、盛り込むべき内容は、見当すらつかなかったはずだ。「拙速主義」で「じつにお粗末な」薄い小さな冊子であったからこそ、「なにかの時に役に立つ」のではないかと人々は根拠もなく期待し、その期待感に支えられ後押しされて、『日米会話手帳』を買った。

 この出来事は、戦後の日本の文字どおりスタートの部分で起こった、相当に不幸な出来事だったのではないか。英語なんてこの程度のもの、とは当時の人々はまだ思ってはいなかった。しかし、これは便利そうだ、これはいい、これでいける、ときわめて素朴に楽観的に、彼らは思った。言葉なんてこの程度のものという誤った認識まで、そこからあと半歩もない。

 日本の大衆にとってのさまざまな価値のなかで、言葉というものの価値がどのあたりに位置するものであったかを、『日米会話手帳』をとおして推測することは充分に可能だ。価値としての言葉の位置は、思いっきり低かったのではないか。

 自分を中心としたごく狭い世界の運営は、赤子として生まれてからの成長という、成りゆきのなかで身につけた自国語で、充分に間に合った。間に合えば間に合うほど、社会は言葉によって作り出されて成立し、言葉によって変革され前進していくなどという認識とは、無縁になる。それに、言葉というものをそのように認識する機会をついに持たなかった歴史は、ふと振り返ると江戸から続いている。

『日米会話手帳』は、多くの意味で、日本人の身の丈に合っていたはずだ。三か月ほどの期間に三百六十万部が売れた事実こそ、日本人の身の丈だ。身の丈に合っていなければ買うはずがない。自分たちは言葉を嘗めているという自覚すらないままに言葉を嘗めてきた大衆が、戦後という歴史に向けてあらためて言葉を嘗めなおした記念すべき出来事が、『日米会話手帳』だった。

 アメリカとの戦争に日本は負けた。その日本はアメリカによって占領される。アメリカが日本へ来る。さあ、困ったことになった、と当時の日本の人たちは思った。たいへんに困ったのだ。けっして喜んだのではなかった。アメリカと直接の関係を持たなくてはいけない。日本の歴史にとって初めてと言っていい、ひとつの外国との直接の関係だ。

 このとき日本人がいかに困ったかをいまに伝えてくれているのが、『日米会話手帳』の三百六十万部という売り上げ数字だ。本当に困っていた日本の人たちに向けて、じつにいいタイミングで、『日米会話手帳』は差し出された。敗戦直後という時代では特に、現実に張りつくほかに生きる道はなかった。『日米会話手帳』というタイトルを、これさえあればどんなに困った現実でもなんとかこなすことが出来るのだと解釈した当時の人々は、『日米会話手帳』を、そして数多くの類似本を、競って買った。

底本:『日本語で生きるとは』筑摩書房 一九九九年


『日本語で生きるとは』 戦後 日本語 英語
2017年8月16日 00:00
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