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トマト、胡瓜、豆ご飯、薩摩芋

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 自分のところの畑の一角には夏にはトマトが実った。海へいく途中でその畑の近くをとおるなら、寄り道をしてそこへいき、トマトを三つ四つもいで海へ持っていった。熟れる前の緑色の不思議な球体が、半分以上は赤くなっているトマトだった。海ではこれを投げ合って遊んだ。泳ぎながら野球のボールのように投げてはつかみ、海面に落ちたのに向けて抜き手で泳いでいき、標的としてふさわしい距離にいる仲間に投げる。やがてトマトの皮は破れる。かなり破れたところで、立ち泳ぎをしながらそれを食べてしまう。いまのトマトとはまるで別物の青くさいトマトのなかに海水が入り込み、ほんのりと塩が効いていた。

 畑には胡瓜も実っていた。四、五本採ってきてくれと頼まれて、歩いて七、八分の畑までいく。胡瓜は胡瓜でじつに不思議なかたちをして、何本も垂れ下がって壮観だった。ほどよい大きさのを四、五本、蔓からもぎ採る。胡瓜の胴体には小さな尖ったいぼいぼがたくさんあり、子供の手にはこれが思いのほか痛いときがあった。Tシャツの裾に五本の胡瓜を巻き込み、小走りに自宅へと戻る。一本だけ自分にもらって水で洗い、いぼいぼを落とし、包丁で縦にふたつに切る。生の胡瓜につけてもっともおいしい味噌を壺から少し取り出し、胡瓜の切った面に塗りつけ、二階の窓から暮れていく景色を眺めつつ食べた。

 豆ご飯に使う豆も畑で収穫していた。かけるべき手間をきちんとかけると、この豆は驚くほど大量に実った。豆は竹を編んで作った直径の大きな容器いっぱいに穫れた。そのさやを破り、なかから丸い粒となっているあの豆を取り出すのは、幼い僕の仕事だった。中庭に面した縁側にすわり、暮れなずむ初夏の一刻、莢を破っては豆を取り出す作業を、延々と続けた。指先にかける負担を最小限に抑えて莢を破るための、ほんのちょっとしたこつがあったように思う。

 薩摩芋や馬鈴薯も別の畑で収穫していた。蔓をたぐって土中から引き抜くと、土にまみれた薩摩芋や馬鈴薯が、次々につらなって姿をあらわす様子は、魔法を目のあたりにする気分だった。堀り起こしたばかりのをひとつ手に持つと、土の中で実っていく期間に球根のひとつひとつが発揮した求心力の強靭さを、掌ぜんたいに感じた。

 薩摩芋と馬鈴薯は、焚き火で焼き芋にして食べるのを、僕はもっとも好んだ。子供が焚き火をする空き地はいくらでもあったし、子供の焚き火はごく普通の遊びのひとつだった。燃やすための古い板や使い道のなさそうな棒などは、それ専用の置場に燃料としていつもたくさんあった。中庭から山裾へ出ていけば、松ぼっくりや小枝がひとかかえ、ふたかかえとたちまち集まった。

 子供の僕は焚き火のエキスパートだった。薩摩芋を透きとおるような黄金色に、しっとりと焼き上げるのも上手だった。そしてそれを友だちと食べるのは、至福のひとときだった。子供の頃のこうした体験を懐古する趣味を僕は持たない。子供の時期をいったん終えると、そこからは三十年、四十年と、こうした時間を一秒たりとも持たないままに毎日を生きることになった、ということを書きたくて書く。

(底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 二〇〇四年)

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2017年5月27日 00:00
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