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ペラペラとはなにだったか

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 英語がペラペラ、という言いかたがある。なにを言っているのか自分にはわからないが、日本人が外国人と英語で滑らかにコミュニケートしている状態に見えるとき、その日本人の英語はペラペラである、と表現されてきた。まったくたいしたことのない英語でも、ペラペラに聞こえればペラペラなのだ。

 彼は英語がペラペラだから、というような言いかたをする人も、さすがにいまは少ないような気がする。英語世界と日本語世界とが、遠く隔たっていた時代には、聞いてもチンプンカンプンの英語は、ペラペラと表現しておけばそれで済んだ。

 いまはそうもいかないだろう、と多くの人が感じている。英語世界と日本語世界は、充分に接近した状態をさらに越え、当然のこととして隣り合わせだし重なってもいる。ここにいたってもなお、英語がペラペラなどと言っていると、そんな言葉を使う自分の頭の程度が疑われる。

 英語がペラペラという言いかたは、明らかに消えていきつつある。これはいいことなのだろう。ペラペラという言いかたは、戦前からあったのだろうか。戦後の言葉ではないか、と僕は推測している。アメリカと日本との関係は英語で営まれる。営みの末端を庶民が耳にするとき、その英語はペラペラとしか聞こえなかった。それはとてもいい時代だった、という感じかたも充分に成立する。

 ペラペラという形容は、日本人の喋る流暢そうな英語に対してだけではなく、英語を自国語とするアメリカの人たちにも、適用された。「アメちゃんにいきなりペラペラやられたって、こっちはなんにもわからないよ」というふうに。そしてペラペラという擬態語・擬声語には、多少の侮蔑感が、ほとんど常に加えられてもいた。

 ペラペラな英語とは、発音も含めて、あるいは特に発音において、流暢そうに聞こえる本場の英語、というような意味だ。自分たちの日常をこなすのがやっとという庶民が好んで使った、他愛のない言葉だ。それ故に、日本人と英語との関係をめぐる、いくつかのきわめて基本的な問題を読み解くための、恰好の手がかりとなってくれると僕は思う。

 ペラペラとは、まずなによりも、音声の問題だ。アメリカ人ならアメリカ人による、身についた自国語としての英語の、反射的に口から出てくる文章の音声が、日本人がまるで聞き取れていない状態のすべてを、ペラペラというひと言は言いあらわしている。とにかくなにもわからないのだから、どんなことを喋られていても、ペラペラとしか聞こえない。喋られた英語に対して、このような状態になる人は、いまでもたいへん多いだろう。

 ふとTVをつける。チャンネルはたまたまCNNだ。ニュースの時間だ。アンカーや記者たちが、なにか盛んに喋っている。ニュースだということは画面を見ればわかるが、なにに関してどのようなことが喋られているのか、さっぱりわからないだけではなく、ひと言も聞き取れないという状態は、音声となった英語つまり英語そのものを、なにも知らない状態の典型ではないだろうか。ペラペラとは、じつはチンプンカンプンと同義なのだ。

 さっぱりわからないそのぜんたいが、喋られて音声となっている文章のすべてであり、したがってそれは語られている内容や意味そのものの、ぜんたいだ。伝えたい内容のために選ばれた言葉が、効果的な正しい語順で英語らしくつらなったり切れたりしながら、英語のスピードに乗って発声されている。

 出来事としてはただそれだけのことであり、それが語られていることの内容のぜんたいだ。どう考えても理解のおよばない種類の、深遠な内容が語られているのではない。なにがどこでどうなってこうなった、という話がニュースだ。使われている言葉は陳腐だし、特別に難解な言いまわしが採択されているわけでもない。

 外国人がペラペラと喋っているということがわかるだけで、あとはさっぱりわからない英語のニュース番組をばらばらに分解し、もっとも重要な部分だけにすると、陳腐な言葉の数々と正しい文法ルール、そして英語としての正しい音声化が、そこに残るだけだ。こんなものはかならず百パーセントわかるようになる。というよりも、わかるようにならない理由が、どこにも見当たらない。わかるようにならないとしたら、それは勉強していないか、勉強のしかたが科学的ではないかの、どちらかあるいは両方だ。

 喋られた英語は文章が音声となっているのだから、音声と内容とは完全に溶け合ってひとつだ。しかしここでは、便宜上、このふたつを分けて扱うことにしよう。まず音声だ。ペラペラの英語とは、まったく聞き取れず、したがって自分でもおなじように言うことはいまのところとうてい出来ない、英語の音声だ。

 英語にとっていちばん重要なのは正しい発音だ。日本人にとって正しい発音とはなにか。東洋訛りの訥弁でいいから、聞き返されずにつうじる許容範囲内で、正しい音に出来るだけ近い音を、どの単語に関しても出すことが出来る、ということだ。言うのは簡単だが、これだけでもたいへんだ。いったん口を開き、ひと言でも音声を発したなら、英語で話をすることにかかわるありとあらゆる問題が、いっきに膨大に広がる。どこからどう手をつければいいのか、と誰もが思う。単語のひとつひとつから手をつけていくほかに、方法はない。

 言葉を音声として口から出すとき、いろんな音を使う。そのいろんな音を作るために機能する最小単位の音を音素と呼ぶ。この音素の数が、日本語では二十個だという。ところが英語では、四十五個もある。英語を音声にするときに使う音素のうちの半分以上が、日本語にはない。

 英語の音素四十五個のうち二十五個は、日本人が生まれて育っていく過程のどこにおいても、日常的に聞いたことはなく、したがって自分の口から出したこともない音だ。それ故に、正しい英語の音を聞いても正確には聞き取れないし、自分で正確な音を出すことも出来ない。その英語はどんな音でしたかと訊かれたら、ペラペラの英語でしたとしか答えようがない。

 英語の単語を少しでもまともに発音しようとすると、自分にはひとまず聞き取れないし声にして出すことも出来ない音が半分以上もある事実を、日本の自分たちは発見しなければならない。英語の音を作っているさまざまな音のうち、半分以上が日本語にはない。日本語には存在していないそれらの音は、日本語の音のためには必要のない音だから、存在していない。したがって少なくとも最初のうちは聞き取れないし、いまの音とおなじように言ってごらんなさいと言われても、舌や唇、口の内部などをどのように使って出すべき音なのか、見当すらつかない。

 こういったことはすべて自然な成りゆきというものだが、英語を学び始めたとたんに半分以上の音が出せず、半分以上の音が聞き取れないのだから、自分のほうからはまず音そのものがつうじないし、相手がなにを言っているのかもわからないという、たいそう不利な位置に立たなくてはいけない。正しい音とその出しかたに関して、きわめて厳しく自分を律しつつ学ばなくてはいけないという事実が、ここから学べる。

 英語の音素四十五個のうち二十五個は日本語のなかに存在しないから、それらは自分の耳にとっても口にとっても完全に異国語の音であるという事実は、多くの日本人に共通するひとつの際立った特徴を生み出している、と僕は思う。生まれ落ちてこのかた、聞いたこともなければ自分から声に出したこともない英語の音は、聞いても聞き取れないし声に出して言うことも出来ない。ここまではなんの無理もない、ごく自然なことだ。無理のない自然さの延長として、圧倒的に多くの人は、英語の音を日本語の音だけで間に合わせようとする。

 片仮名の「ス」で書くことの出来る英語の音には、すべて日本語の「ス」の音をあてはめてしまう。日本語からのあまりにも自然な横滑りだから、英語という外国語の音に対して、そんなことをする自分がいかに無頓着であり無神経であるか、気がつかない。音声がすべてであるという基本的な性格を持つ英語の、その音声のいちばん手前の部分で日本人はつまずき、転び、したたかに体を地面に打ちつけ、そのことがそれ以後にとってかなり深刻なトラウマとして作用する。

 クリスマスという日本語は、五つの片仮名で表記されている。発音されるときには、どの片仮名の子音のあとにも母音がひとつずつ付随し、どの片仮名の音もはっきりした母音で終わるようになっている。クリスマスの「クリス」の部分だけを例にとると、KU、RI、SUというように。だから日本語だと「クリス」の部分には、「ウ」「イ」「ウ」と、三つの母音が存在している。英語では中間的な母音としての、「イ」ひとつだけだ。「ウ」という母音を二度とも使わず、「イ」ひとつだけで「クリス」と言ってごらんと言われたなら、多くの日本人は困る。はっきりした母音に守られた日本語の子音は、息を使わずに弱く発音される。緊張した音を作る必要はない。英語の子音とはまったく逆の状態だ。

 日本語と英語では、音声のために使う音が、まるで違う。周波数帯を正確に計測するなら、その違いは数値として目で見ることが出来る。人が口から出す言葉の音として、日本人には少なくともなれるまでは聞き取れない音が、たくさんある。聞き取れなければ、おなじ音あるいはごく近い音を、自分も出すことは無理だ。

 日本語でどの子音のあとにもつく母音は五つあり、これは普通ではアイウエオと呼ばれ、そう発音されてもいる。「ア・イ・ウ・エ・オ」という順番には、日本語として正当な意味が隠されている。この順番で発音すると、「ア」はいつもくっきりと「ア」の音だし、「イ」も「ウ」もすべて、はっきりと「イ」や「ウ」の音になる。これ以上にはっきりさせることは出来ないほどにはっきりと発音するしかけになっている五つの母音によって、日本語の音はすべて強力に規制されている。

 英語にはたくさんある中間的な母音を、日本語は許していない。「ア・イ・ウ・エ・オ」をたとえば「エ・ウ・オ・イ・ア」とならべかえ、早口で発音してみるといい。「ア・イ・ウ・エ・オ」の場合はどの音も角がきっちりと角になっている立方体だとすると、「エ・ウ・オ・イ・ア」の場合には、角が丸まったような不明確な立方体となりやすい。

 いくら困ってもいいから、クリスマスを日本語としてではなく、英語としての正しい音へ七十五パーセントくらいまで接近させる努力を根気よく繰り返す、ということを日本人はしないようだ。自分たちそのものである日本語とは、なにからなにまで完全に異なる英語を、異質さのままに正面から受けとめ、観察し分析して応用するという科学的に正しい態度を、多くの人は本能的に嫌っている。ひとつひとつの単語に関して、その発音が七十五パーセントの正しさにまで到達するようになれば、その人の英語能力ぜんたいが飛躍的に向上するのだが。

 日本語にない音としてよく例に出されるのは、RとL、そしてTHとZだ。日本人はLの音を出すのが苦手だと言われ、当人たちもそう思い込んでいるようだが、たとえば「ラ」の音を出すと同時に口が開くときには、その「ラ」の音はLの音ないしはそれにごく近い、と僕は思う。

 ラーメンという言葉を、それひとつだけ言うとき、頭の「ラ」の音は、どんな日本人でもLの音にごく近い。ただしラーメンの前になにか言葉があるとき、たとえば「俺はラーメン」となると、前にある言葉の音の出しかたに引きずられ、「ラ」の音は完全なRになったりもする。RとLの区別は、日本語ではまったく必要のない、すべてそのときまかせの、いっさいなんの問題ともなり得ないことなのだ。ラッパ、ラジオ、ランプなど、Lの音に「ア」の母音が付随する日本語のとき、その「ラ」は英語音声のLないしはそれに近い音となる。

 ロンドンという地名も日本語だ。「ロ」はLの音なのだが、日本語の「ロ」の音は口がすぼまっていく音だから、Lであるべきこの音がほぼかならずRの音になる。TVニュースのアンカーが「ロンドンの値動き」と言うと、「輪舞の値動き」に聞こえる。ロンドンはロンド(輪舞)にごく近くなるからだ。どうでもいいような細かいことに思えるかもしれないが、こういうことはじつはとんでもないことなのだ。とんでもないことなのだという自覚を身にしみて持てるようになるために、ではいったいどんなことをすればいいのか、僕にはわからない。

 相手の言っていることが聞き取れない、そして自分の言うことが文字どおりひと言も相手につうじないという、日本人学習者の典型的な症状の根底には、ひとつひとつの単語の発音がまったく正しくないという、泣くに泣けないほどに単純きわまりない事実がある。簡単なひと言が相手につうじない。聞き返される。たじろぐ。言いなおす。それがまたつうじない。慌てる。どうしたことだ、これは、とパニックを起こす。俺としたことがこの始末はなんだ、と自分を責める。いつまでもひと言がつうじない。きまり悪い。情けない。自信を喪失する。口から出した外国語の音が、正しくなかっただけなのだが。

(『日本語で生きるとは』筑摩書房、1999年所収)

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2017年4月17日 00:00