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性悪説でいこうか

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 監視カメラの設置される場所が急速に増えている。集合住宅のエレヴェーターとその周辺、商店街や歓楽街のあちこち、ATM、コンビニ、駅や空港、駐車場など、それぞれの管理者が、そこを利用する人たちの安全や安心、あるいは防犯のために設置している。

 こうした場所は誰もが等しく利用する公共の場所や施設だ。公共ではなくとも、不特定多数の人たちの、必要に応じた自由な出入りや利用を前提とした場所だ。誰にとってもそこは生活の現場だ。家庭や仕事の場所とおなじく、人々にとってなくてはならない重要な場所だ。

 生活の現場という帰属先に、次々に監視カメラが設置されるのは、それらの場所がさまざまな危険をはらんだ、安心出来ない場所へと、急速に推移しているからだ。公共の施設や場所、あるいはそれに準じる場所や設備は、そこを攻撃しよう、破壊しよう、そこで犯罪を侵そうとする意志とアクションに対して、じつはきわめて無防備でもろい。なぜならそうした場所はすべて、人々の性は基本的に善であるとする、性善説に基づいた場所だからだ。ここでそんなひどいことをする人はいないはずだ、という性善説だ。

 どこであろうとたいへんにひどいことをする人たちが確実に増えているから、防備の手段として監視カメラが設置される。なにしろ公共あるいはそれに準じる開かれた場所だけに、防備策としては巡回による監視しかない。それを代行するのが監視カメラだ。生活の現場を支えてきた性善説が、かたっぱしから崩れつつある。いたるところにある監視カメラで常に監視されることによって、個人の自由やプライバシーが侵されていく、という論をしばしば目にするが、まるで当たっていない。個人が確実に侵されているのは、監視カメラを必要とするほどの治安の低下、つまり日本という主権国家の崩壊によってだ。

 日本の国境の内側は日本の領土だ。いつもの駅やスーパー、住んでいる建物、商店街など、どこもすべて日本の領土だ。その領土内の治安を最大限に守るのが、主権国家の責任と義務だった。これをけっして放棄したわけではないのだが、常に最大限に守ることは不可能になったので、監視カメラという手段の助けを得ている。 国民ひとりひとりを厳しく掌握し、さまざまな手段で緊密にコントロールし、共通の感情や価値観、言語、文化、情緒などを隅々までゆきわたらせた途方もない努力の結果として、主権国家は性善説によって営まれる領域を、広く持つことが出来た。その主権国家がすでに確実に崩壊しつつあり、それと並行して、主権国家が崩壊していくぶんだけ、性善説は性悪説によって具体的に侵されていく。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年

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2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 日本 社会
2017年3月22日 05:30
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