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大変なときに生まれたね

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 推理小説作家の横溝正史さんは、夏を軽井沢の別荘で過ごしていた。確か一九七五年の夏、横溝さんにインタヴューを受けてもらうために、僕は日帰りでその別荘を訪ねた。FM局の二時間番組の進行役、という仕事も当時の僕はこなしていた。その番組のなかにインタヴューないしは対談のコーナーがあり、番組のスタッフとともに別荘を訪れ、横溝さんと二、三時間、話をしたのだった。

 新人作家だ、ということのほかに、僕についての予備知識など、横溝さんは持っていなかったはずだ。その初対面の僕に関する、横溝さんの第一印象は、いい声できれいな東京弁を喋るんだね、というものだった。僕は自慢しているのではない。その頃の僕はそうだったかもしれない。横溝さんが言ったことを、そのとおりに書いているだけだ。

 その次に横溝さんは、きみは何年に生まれたの、と僕に訊いた。僕はちょうど三十代のなかばだった。青年の面影を残しつつも、三十代の後半へと入っていこうとしていた、ある種のとっちゃん坊やだったに違いない僕の、生年を横溝さんは確かめたくなったのだ。きみはいくつなの、と年齢という数字を訊いてしまう人ではなかった。そのような時代の人ではなかった、ということだ。生年という単純な数字を訊き、それだけで満足してしまうのは、最近の人たちが持っている傾向だ。生まれた年を答えた僕に、大変なときに生まれたね、と横溝さんは言った。

 僕よりもはるかに年長の横溝さんが生きてきた時間のなかに、僕の生きてきた時間は、丸ごとすっぽりと収まってしまう。生年さえ明らかになれば、僕がどんなふうに育ったどのような人なのか、七十パーセントから八十パーセントくらいまで、横溝さんにはほぼ正しく見当がついたはずだ。僕は「大変なときに生まれた人」なのだ。

 横溝さんが言った「大変」とはなにか。ひと言で言うなら、それは戦争だ。その頃の日本はすでに中国大陸で戦争をしていた。世界情勢の推移を視野に入れて、ドイツ、イタリー、日本の三国同盟を締結し、イギリスやアメリカとの戦争を想定した上での、東南アジア政策をどうするか、というようなことをやっていた。この政策は軍部の強硬方針によって、フランス領インドシナ北部への武力展開となったりした。これでは確かに「大変」だろう。いかに大変だっ たか、横溝さんはそのすべてを現実に体験した世代の人だった。

 中国から南太平洋にまたがる広大な地域で、アメリカやイギリスを相手に戦争をして勝つ国力など、日本にはまるっきりなかった。それでも戦争を強行したのだから、その日本に生きる人の状況は、「大変」としか言いようのないものとなるのは、誰の目にも明らかだったはずだ。資源がなく余力に乏しい日本が、これほどに広い地域で欧米を相手に総力戦を強行したら、いったいどんなことになるか。

 戦場は悲惨で壊滅的な敗北の連続だ。国内ではあらゆる物資が欠乏し、それは人々の生活を直撃した。すぐに日本本土が戦場となり、日本はアメリカによる無差別で徹底した爆撃にさらされることになった。多くの人がそれによって直接に死傷し、さらに多くの人が間接的に死傷し、生活を根底から破壊された。

 僕が東京で生まれた年に、「贅沢は敵だ」と大書した立て看板が、一千本、東京市内に立てられた。毎日の生活にぜひとも必要なものを求めることが、日本政府によって「贅沢」と規定され、鬼畜英米とおなじ「敵」である、ということになった。砂糖が日本全国で切符制となり、東京府の食堂や料理屋などでは、米のご飯の販売が禁止されたり時間が制限され始めた。米は配給制になっていたが、それまでは四十パーセントだった外米の混入率が、六十パーセントにまで高まった。外米とは東南アジアから輸入した米のことだろう。

 十二月八日にアメリカとの戦争を始めた一九四一年の日本では、生活必需物資統制令が施行された。人々の生活に必要なあらゆる物資を、切符制で統制するための法的な根拠だったという。いかに「大変」な時代だったか、食べ物だけについて、ごくおおまかに追体験をしてみたい。生まれたばかりの僕はじつはこんなところで生きていたのだ。

 米穀配給通帳制や外食券制が、六大都市で実施に移された。米の配給量は、一般成人ひとりにつき、この頃はまだ二合三勺だった。酒、マッチ、小麦粉、食用油などが配給制となり、五月には初めての試みとして、肉なし日というものが登場した。毎月二回、肉屋や食堂で、肉をいっさい売らない日だ。

 一九四二年は、「欲しがりません勝つまでは」という標語が、日本国家によって国民全員に強制された年として記憶されている。食塩が通帳配給制になり、衣料、味噌、醬油などが切符制に移行した。切符があればこれらの物資は買えたのかというと、そんなことはなかった。切符はあっても、品物はどこにも売ってない、という状況だったからだ。妊婦には妊産婦手帳が交付されるようになった。妊婦にはちゃんと子供を生んでもらって日本の人口を増やそうではないか、という日本政府の方針により、妊婦には栄養食を優先的に配付する、ということだった。現実にどこまでこの方針が守られ徹底されたかは、もはや知る人もいないのではないか。

 一九四三年は「撃ちてし止まむ」という標語の年だ。ここまで来ると状況は悲惨なものだ。食糧増産応急対策要綱、というものを日本政府は決定した。実効はほとんどともなわないのだが、そして内容たるや泣くに泣けないようなものでしかないのだが、政府はとにかく要綱を決定した。ここで言う「食糧」とは、雑穀や野菜のことだ。「増産」とは、国民ひとりひとりが頑張って作れ、ということであり、「応急対策」とは、空き地を畑にしてそこに南瓜や豆を植えたりしろ、ということだ。東京では住宅地の脇道や路地が、なけなしのツルハシやスコップで住民たちによって掘り返され、現実に南瓜やいんげん豆などが植えられた。浅く掘った痩せた土地には、ひねこびた小さくてまずい南瓜が実った。甘く煮ればなんとか食えると言っても、砂糖はとっくに配給制だった。昭和通りの植樹帯がにわか作りの野菜畑になった様子を記憶している土地の古老は、まだ健在だろう。こういうことについて、少しでも語ってはどうなのか。

 野草の積極的な食用も、日本政府によって本気で奨励された。道ばたの草を食え、ということだ。いまの北朝鮮とおなじではないか。敗戦の前の年には、日本はこんなところまで追い込まれていた。道ばたの草を料理したものは、日本政府の命名によれば、「決戦料理」であるということだった。こんなところも北朝鮮とよく似ている。

 一九四四年の東京では、ビアホール、百貨店、喫茶店などが雑炊食堂へと転用され、開設された。この文脈での雑炊とは、食べられるもので手に入るものすべてをぶち込み、ぐつぐつと煮たものだ。もちろん無料提供ではなく有料だ。大都市の国民学校では、学童への給食が始まった。民間にはもう食べるものがないから、少なくとも学童の食事は日本政府がなんとかしようということなのだが、なんとかするとは言っても、民間からいままで以上に強制的に供出させただけだ。家庭用の砂糖が配給停止となった。飼い犬に食べさせるものを人が食べるまでに困窮した国民は、飼い犬を放し始めた。その結果として東京には野良犬が急増し、府や市が野良犬を買い上げたり、毒殺用の毒饅頭を配ったりした。

 そして一九四五年。七月には主食である米の配給が一割減の二合一勺となった。八月一日には煙草の配給が一日五本から三本へと減った。ごく一般的な歴史年表の本から、「社会」あるいは「世相」などに区分けされたなかから、食べることに関する項目を、拾い出してならべてみた。これは確かに「大変」だ、あるまじきことだ、なんというひどいことか。道ばたの草を料理して積極的に食すれば、それは「決戦料理」であるというところが、いちばんひどい。国民に対してこのようなことをする日本政府が、敗戦と同時に消滅したわけではない。いまも健在だ。おなじようなことをまたやるだろう。そしてそのときは、道ばたの草どころではない、もっとひどいことになるはずだ。

底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 二〇〇五年

今日のリンク|昭和からの贈り物|今日は片岡義男が生まれた日。昭和の出来事をまとめたサイト・1939年のページより。

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1939年 2005年 『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』 戦争
2017年3月20日 05:30
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