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「と思います」をめぐって

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「私は作家になりたいと思います」という言いかたのなかにある、「と思います」の部分は、少しは日本語がわかるという段階の英語世界の人たちには、なかなか理解しにくいようだ。作家になりたい、ということを思うとは、どういうことなのか。言葉が二重になっているぶんだけわずらわしいし、言いあらわそうとしている意思は薄められてしまうではないか。なりたいという願望があるなら、それをそのまま、なりたい、と言えば充分ではないか。

 このような疑問が彼らの頭のなかに次々に浮かんでくる。もっと日本語がわかる人だと、なりたい、という願望の直截な表現とは、少しだけニュアンスが異なるのではないかと考えたりもするようだ。作家になることを願望しつつ、作家になることにかかわるいろんな問題を前もって検討しているところである、という意味ではないか、などと解釈したりする。しかしこのような解釈はあまり意味を持たない。なぜなら、日本人が自分の意思や考えを相手に伝えようとするとき、ほとんど常に、「と思います」のひと言を最後につけ加えることに、やがてはかならず気づくからだ。「と思います」という謎が、こうして英語世界の彼や彼女の前に立ち上がる。

 このような彼や彼女たちに対して、日本語の側からなされる説明は、おおむね次のようだ。なりたい、と言いきることがいろんな理由ではばかられるから、緩衝的なひと言をつけ加えてひと皮くるみ、当たりを和らげた上で相手に差し出す工夫が、「と思います」という言いかたなのだ。この説明を受けとめる英語世界の人たちは、「と思います」のひと言を、なにか怪しげなものとしてとらえるようになる。作家になりたいというような平凡な願望を人に伝えるにあたって、いったいなぜ、当たりを和らげなくてはいけないのか。相手に差し出すときの工夫と言うけれど、自分の考えをのべるときにはほとんどいつも、「と思います」というまったくおなじひと言を、人々は自動的につけ加えているではないか。

 英語世界の人たちにとって怪しげなものとなった「と思います」について、日本語の側からさらに提示される補完的な説明は、次のようなふたとおりの説明となるようだ。ひとつは、自分の断定的な主張を相手に直接ぶつけることを避け、自分の主張によって相手が困ることのないように配慮した言いかたが、「と思います」である、という説明だ。ではもうひとつはどんな説明か。はっきり主張することを避けて自己責任をあらかじめ軽減させておく工夫であり、この軽減された責任というものが、誰にとっても暗黙の了解という領域を作っている。このような領域がいたるところに 配置されていないと、日本人の言語生活は成立しない。もうひとつの説明はこんなふうであり、こ れは「と思います」にとっては不利なものだ。

 作家になりたい、と言うだけでは、自分の胸のうちが充分に表現されない、と日本語の人たちは感じているのではないか。「と思います」を文末につけ、作家になりたいと思います、と言って初めて、自分の胸のうちが自分のものとして言いあらわされる気がするのではないか。どんなことであれ、思って初めて、自分はまず自分らしさをまっとうし、他者に対しても充分に言いあらわされ得る自分となるのではないか。

 自分とは、ほとんどすべてのことに関して、なにはともあれ、思う人なのだ。自分のなかにあるいちばん大事なものは、思いなのだ。思えばそれは自分のものとなり、思わなければ自分のものとはなりきらない。意思、決断、主張、判断、思考など、なにであれ、自分の思いのなかを通過しないことには、自分のものとはならない。

 それはそれでいい。そして思いというものは、いつでもどんなふうにでも取り下げることが可能だが、頭のなかの思考ではなく、思いとして胸のうちに痕跡を残してしまうから、思いはしたけれど、決断にはいたらず、したがって思いを実現させるための最初の第一歩というアクションすら自分は起こすことはなかったという、次の段階の思いがいつまでも心のなかに残り、それは自分にとっての内的な葛藤であり続ける。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年

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2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 日本語 言葉
2017年3月14日 05:30
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