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西ヴァージニア州シェナンドア河

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 『ウインドソング』という題名のLPのジャケットに、ジョン・デンヴァーは次のようなみじかい言葉をよせている。

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Windsong,John Denver,1975[BMG Special Products]

 「友だちのみなさん
 風がつくる音をレコードにしようと思ったのです。このアルバムにおさめて、あなたに聞かせたかったのです。ぼくが風のつくる音楽を楽しんでいるのとおなじように、あなたにも風の音楽を楽しんでもらいたかったのです。吹く風のなかに聞こえるすべてのものをレコードにとらえようとしてついやした数多くの時間と日々のなかでついにわかったことは、風のなかにある音楽をレコードにおさめるなんて不可能だということでした。やがてそのうちあなたもどこか静かなところへ出かけ、自動車なんか走っていず、犬のほえる声や頭上を飛んでいく飛行機の音もないなかで、風がつくってくれるあらゆる音楽を聞くといいですね。めぐりあわせがとてもうまくいったなら、山のふもとの湖のほとりにすわって、嵐が起こりそして過ぎ去っていくのを聞くことができますよ。とてもとても美しい音楽が、そこにはあるのです。あなたは、ただそれを聞けばいいだけなのです。
 あなたを愛しているぼくは、あなたに平和がおとずれることを祈っています」

 ジョン・デンヴァーのレコードを聞いていて感じられる、さわやかで明朗な広がりは、そのときその場の自分をジョン自身がくったくなく肯定していることから生まれてきているようだ。そして、ジョンが肯定している「そのときその場の自分」としてこれまでいちばん目立ってしかも重要だったのは、都会から自然へ帰っていく、という状態だった。

 都会から自然へ、というひとりの人間の動きや気持ちをうたうことは、ジョン・デンヴァーにとってはとても重要なテーマあるいはステートメントだった。それが彼の歌のなかでどんなふうに表現されてきたか、聞きなおしてみよう。

 たとえば『ロッキー・マウンテン・スイート』では、こんなふうに彼はうたっている。

  アルバータのジャスパーの野原を
  ふたりの男と四頭の馬がながいさびしい旅をしている
  山を見にいき、そこに住んでいる人たちを知りにいくのだ
  そこで人がどんなふうに生きてどんなふうに死ぬのか
  ふたりの男のうちひとりは教える立場、もうひとりは山へいきたがっているだけでまだ山のことはなにも知らない、でも知りたがっている
  このふたりの男たちはぼくらに物語ってくれる
  ずっとずっと以前に語られ聞かれるべきだった物語を

 自然に帰ろう、自然のなかへ入っていこう、という気持ちの強さを、カナダのアルバータの山にむかって旅しているふたりの男の姿に託してうたっている。ふたりの男のうち、ひとりは、山の自然のなかでの生活をよく知っていて、もうひとりはそういったことを知らないけれど知りたがっている都会の人だ、という設定が面白い。このふたりの男が、ずっと以前にぼくたちが聞くべきだった物語をやがて語ってくれるはずだ、とジョンがうたうとき、「自然のなかへ入っていこう」というステートメントが持ちかねない押しつけがましさが、こういう人物設定や状況設定によって格段にやわらげられる。いま、ここから、さあ、自然のなかへ、という平面的なステートメントではなく、「自然のなかヘ!」という気持ちに、どことなくしんみりしたような深みがつくりだされる。いま自分がいる「ここ」から、たとえばカナダのアルバータやアスぺンのスターウッドなどとのあいだにある距離がはっきりとうかびあがり、それによって自分がいま自然からどれだけ遠いところにいるかが、痛感できるしかけだ。それが痛感できれば、「自然のなかヘ!」というメッセージがよりいっそう効果的に伝えられることになる。さらに、彼方にある自然までの距離がうかびあがると、その自然はあくまでも彼方にとどまったままではあるけれど、自然というものが持つ空間のスケールが広がる。この広がりは、ジョン・デンヴァーの歌に描かれる世界の土台となっている。

 一方から他方にむかって、さあ自然のなかへ帰ろう、という平面的な説得力を欠いた呼びかけは、さすがにおこなわれていない。

 『テイク・ミー・ホーム、カントリー・ロード』という歌を聞いてみよう。西ヴァージニア州のブルー・リッジ・マウンテンズやシェナンドア河の故郷にむかって帰っていきつつあるいまの自分の背景として、次のような描写がある。

  カー・ラジオを聞いているとずっと遠くの自分の故郷を思いだす
  こうして自動車で道路を走っていくとなんとなくわかってくるんだなあ
  ずっとずっと以前にぼくは故郷に帰るべきだったのだということが

 西ヴァージニアの故郷、田舎の道路、自分が乗っている自動車、田舎の故郷に帰るべきだと気づかずに都会ですごした年月、カー・ラジオ、といったものやことがらにかこまれて、西ヴァージニアの山のなかの炭坑町を思い出しつつ、「田舎の道路よ、ぼくを故郷へつれて帰っておくれ」と、歌の主人公はうたいかけている。この歌でも、「自然のなかへ!」というテーマが、情緒をはらんだある一定の間接性を持ってうたわれていることに気づく。

 「自然」とか「自然のなか」といったものに関して、ジョン・デンヴァーはどのような具体的な認識を持っているのだろうか。彼の歌のなかで使われている、自然というものの認識にかかわる個々の言葉をながめなおすことによって、想像上の自然、あるいは、一種の気分としての自然みたいなものが、うかびあがってくる。

 『ウイスキー盆地のブルース』では、「自然」を描写ないしは説明していく言葉として、次のような言葉に触れることができる。

  ワイオミング東部の山のなか
  雪に降りこめられた夜
  今日も太陽をさがして
  のんびりとすごした
  ウイスキー盆地の外
  すきま風の吹きこむ古い丸木小屋に
  またひとつの明かりがともる

 冬の山のなかの丸木小屋には男がひとりで冬をすごしている。男は、ララミーにいる女のところから逃げてきた。なぜ逃げてきたのか、その理由は「誰にもわからない」と、とても簡単にかたづけられている。

 自分でつくったウイスキーを飲みながら、ひとりで冬をやりすごそうとしている男をとりまく山の自然。そして、その自然を相手にすごす日々は、次のようだ。

  明日もまたあまりやることはない
  生きのびていけばいいだけなんだ
  自然とたたかうといったって友だちづきあいのうえでの喧嘩みたいなもの
  そして人生には楽しさがいっぱい

 『ロッキー・マウンテン・スイート』に描かれている自然は、どんな自然なのだろうか。

  カナダの寒い夜、そして凍てつくような青い風
  人間と山々は再び親しい友となり
  澄んだ湖水が笑ってる
  空にむかってうたってる
  ロッキーの山々は生きている
  山が死ぬなんてことはありえない

 もうひとつ、『カウボーイにでもなるよ』では、「山のなかで地面に横たわり、陽の照る日の歌をうたう」とか「ヒナギクを摘む」「雨や日ざしと共に笑いたい」「星の出た野原に日没を見たい」などという言葉で、自然のなかで日を送るありさまが描写してある。

 ジョン・デンヴァーが歌のなかで描く自然は、美しくてロマンチックだと、たしかに言える。ロッキーやアスペンなどの山を中心にして、雪、風、空、大地などが、この手の歌としては美しく澄んだ明確な輪郭を持って、描き出されている。

 と言うよりも、なにかを美しくロマンチックに、永久的な価値あるものとして描きたいという自分の気持ちが向けられていく対象として、ロッキーの山に照る陽や、アスペンのスターウッドの雪に閉ざされた丘などが、利用されている。

 ジョンの歌は、自然へ帰ろうというただ単なる呼びかけではないし、やはりなんといっても田舎や自然は素敵だよという間の抜けた賛歌でもない。

 自然から遠くはなれた日々を送っていたかつての自分が、忘れかけていた自然のなかへいまむかっている、という状態をうたっていて、彼方にある自然に対していつもひとつの期待が抱かれている。

 その期待は、どのような期待なのだろうか。『ライムズ・アンド・リーズンズ』を聞くと、この期待がどんな期待なのか、よくわかる。

 歌の内容はかなりあいまいに語られている。あいまいに描くよりほかにやりようがなかったのかもしれないが、おそらくはながい都会ぐらしで心に傷をつくってしまった人を、ぼくといっしょに山のなかへおいでよ、と誘っている。山へ来て風に吹かれている花を見ながら子供たちにかこまれてごらん、子供たちの笑い声や愛らしさによって、自分を解放する方法がみつかるよ、という内容の歌だ。

 つまり、ジョン・デンヴァーの歌の場合、自然というものは、心の問題としてとらえられているのだ。自然は、心に作用してくるものなのだ。都会に生きてきてなぜか悲しくなったり、あるいは自分の方向を見失ったりしている人が自然のなかへ帰っていくと、見失ったものを見つけなおし、悲しい心は楽しい毎日へと変わっていく。自然に対する期待というよりも、自然に関して自分が抱いている気分とか気持ちと呼んだほうが正確だ。

 自然のたたずまいや自然の営為そのものが問題にされているのではなく、自然というものによってぼくもきみも癒やされ、いい状態になっていくのだよ、という気持ちのほうが、ジョンの歌のなかでは重要なのだ。

 『フォー・ベイビー』でジョンは次のようにうたう。

  そして風がきみの名をぼくに囁いてくれる
  小鳥たちが声をあわせてうたってくれる
  きみがそばを歩けば葉が頭を垂れ
  朝には鐘が鳴るだろう

 こういう美しい情景のなかで、いまは悲しい心でいる「きみ」を、自然と共に「ぼく」が、これまでに見つけたすべての幸せを共に分かちあえるようにしていってあげよう、という意味のことがうたわれている。

 この歌の延長が、『ザカリーとジェニファー』だ。山のなかの生活にあこがれているふたりに、男の子供と女の子供ができる。このふたりの子供たちを山のなかで育てましょうねと、自然への期待をこめた気持ちがみじかく歌になっている。

 ジョン・デンヴァーのうたう自然は、具体的な自然そのものではない。一種の比喩なのだ。このことを端的に表現したきわめつきのような歌が、『サンシャイン・オン・マイ・ショウルダーズ』だろう。「きみ」と「ぼく」が分かちあい、おたがいにあたえあう幸せな日々の代名詞的な比喩として、サンシャイン(陽ざし)のひと言が効果的に登場する。そしてこのサンシャインのひと言は、メロディのうえでも非常に有効に使用されている。

 このきわめつきを太い幹とすると、その幹から、枝葉にいたる歌が数多く誕生している。『ラヴ・エヴリホエア』はその一例だし、わかれの歌である『いってしまうんだよ、ジェット機で』も、ヴァリェーションのひとつだ。

 美しくて澄んではいても、具体性を欠いたうえでの心や気持ちの問題としての自然だから、その自然はあいまいになりやすいし、比喩として多用される危険を持っている。『ウインドソング』がそのことの好例だ。

 この歌のなかでは、風というものの役割が抽象的に列挙されてうたわれ、最後は次のようにしめくくられている。

  だから風をよろこんでむかえ、風がさずけてくれる知恵を受けなさい
  風がまた吹いたらその言うところをよく聞きなさい
  あなたの心や精神のなかで、そよ風にとりかこまれるようになりなさい
  そして声をあげ、風と共にうたいなさい

 自然のなかヘ!という気持ちをうたった歌としては、この『ウインドソング』が、到達点にしろ終着点にしろ、ぎりぎりのところだろう。自然へ、という気持ちが歌としてうまく持続できないと、『スぺースをさがしながら』や『フライ・アウェイ』『カリプソ』のような抽象的な面白くない歌ができてくる。『アスペンのスターウッド』の冒頭で、

  ロサンゼルスからデンヴァーまでは、ながいんだよ

 と、うたうとき、都会で生活してきた過去の日々と、これからデンヴァーの山のなかで送るであろう素敵な日々とがひとつの広がりをつくりだし、その広がりの中心に、いまLAからデンヴァーにむかっている自分が置かれる。そして、過去は小さく遠近法のむこうに見え、これからの日々が大きく遠近法のこちらがわに見えてくる。

 このあたりの感じはとてもいいし、『鷲と鷹』の後半もよかった。

  西風と踊りにこい
  すべての山の頂きに触れてみろ
  峡谷のうえを飛び 星までいけ
  天に手をのぼせ
  そして未来への希望を
  大事なのはこれからのぼくたち
  いまのぼくたちではない

 これはこのまま、『ロッキー・マウンテン・ハイ』で提示されている結論に結びつく。

  鷲が飛ぶのを見たことのない人はかわいそうな、
  あわれな人なんだ

 心や気持ちの問題でもかまわないから、できるだけ比喩から遠いものとして、自然をうたっているジョン・デンヴァーは、とてもいい。

  ぼくの朝にようこそ
  ぼくの日にようこそ
  うん、そうなんだよ、ぼくが責任を負ってるんだよ
  ちょうどこんなふうな世界にしようと考えたのはぼくなんだ

 という、『さらばアンドロメダ』の出だしもいい。自然のなかへ! という気持ちをたかめて持続させているとき、彼の言葉は自分の肉体の論理として、ほどよい力を持って無理なく流れ出てきていた。

 だが、LP『ウインドソング』以後、自然を比喩的に利用したお説教が目立つようになった。

底本:『スターダスト・ハイウエイ』角川文庫 1978年

今日のリンク|John Denver公式サイト

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1978年 『スターダスト・ハイウエイ』 アメリカ ジョン・デンヴァー 西ヴァージニア州 音楽 LP|『ウインドソング』
2017年1月28日 05:30
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