アイキャッチ画像

ダブル・バーガー

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 巨大な空の全域を、分厚い雲が灰色に埋めていた。さまざまな色調の灰色の雲が、複雑に何層にも重なりあい、その結果として、空の雲は分厚かった。重層している雲の、どの層も、急速に動いていた。深く広い空の、ここが自分の高さだと定めた位置で、雲の層はまるでそれぞれが雲の大河のように、一定の方向に向けて急速に流れ続けた。

 一九七七年モデルのキャデラック・エルドラードという2ドア・クーペで走っているぼくから見て、右斜め前方から左の後方に向けて、雲は流れていた。早朝から、ずっとそうだ。今日、朝早くにモーテルを出たときから現在に至るまで、ぼくがキャデラックで走っている道路は、一度も方向を変えず、ただひたすらまっすぐだ。おそらく夜まで、道路はまっすぐのままだろう。

 広い荒野のまっただなかを、往復二車線のセカンダリー・ハイウェイが細く頼りなく、しかしまっすぐに、抜けていく。どの方向に視線を向けても、地平線のはるか彼方に長く続く山なみが淡い紫色のシルエットになって、横たわっている。山なみがこうして淡い紫色のシルエットとして地平線の彼方に横たわっているということも、朝からずっと同じだ。正午を少しだけ過ぎたいま、朝からほとんど変化していない風景のなかを走りながら、ぼくは、遠いシルエットの山なみに囲まれた広大な荒野の内部をぐるぐると周回しているだけなのではないだろうかという錯覚を、ごく軽い恐怖の念とともに、楽しんでいる。

 荒野の風景は、早朝から正午すぎまで自動車を走らせ続けてもほとんど変化していない。二車線のハイウェイの至るところで待ち構えている穴を避けるひとり遊びには、飽きてしまった。前方に穴が見えると、それを避けるために両手がほぼ自動的にステアリング・ホイールを操作している。

 空の雲だけは、見飽きることがない。何重にも重なりあった雲は、それぞれの層が河となって流れている。流れのスピードは、不吉さの権化そのもののように、急だ。

 ときたま、厚い雲に断層ができる。空いちめんに分厚く積層した雲に深い裂け目ができる。最下層の雲から一番高いところを流れる雲まで完全に裂けきると、その複雑極まりない造型の断面全体が、燃えたつばかりにまっ白に輝く。まぶしく白熱するその深い断層を、ぼくは、地上の小さな一角から見上げることになる。

 たいていの場合、そのような深い亀裂は、遠くにできる。キャデラック・エルドラードの正面のガラス越しに、ぼくは、断層をごく浅い角度で見上げる。途方もなく高く積み重なった雲の断面を純白に輝かせている太陽の光は、亀裂の長さと横幅に応じて、地上へも届いている。雲と荒野との間にある空間を一瞬のうちに鋭く切り裂く透明な刃のように、太陽の光は地上へ降りてくる。

 深い断層が、巨大な空を斜めに走っていく。遠い地平線まで続いている荒野と、灰色の雲をバックドロップに、白く輝く亀裂とそこを射しつらぬく光の柱とが、走っていく。巨大な光の柱の一端が、ほんの一瞬、ぼくのキャデラックのエンジン・フードの片隅をかすめたことが一度だけあった。

 このまま断層の内部へ吸い上げられてしまうのではないかという思いに耐えながらぼくは上空を移動していく雲の亀裂を見上げた。深く垂直に屹立している白熱した雲の壁は充分に見えたが、その向こうにあるはずの青空は見えなかった。

空全体が、ほぼ同じ色調の灰色の雲で再びおおわれつくすと、空が荒野やハイウェイを押しつぶすかのように低く降りてくる。

 荒野の地平線まで、どの方向にも、低く厚く雲がのびる。その灰色の底で流れる雲は、空全体が轟々と流れているかのような、恐怖に満ちた錯覚を、ぼくの内部に創り出す。ハイウェイも、そして四九五ポンドの重量を持つキャデラックも、このような空の下ではまるで頼りない。

 雲の厚みが減じ、荒野に向けて低く降りていた灰色の空が少しだけ高くなると、風の音が聴こえはじめる。遠いはるかな追憶に生きる悲しい女性が放つ、永遠にどこへも届かない悲鳴のような風の音だ。悲鳴の悲しみの深さに呼応して、風の力はすさまじく強い。

 ハイウェイのわきに、標識が一本だけ、立っているのが見えた。風のなかをたぐりよせられるようにその標識はぼくに向かって近づき、キャデラックのわきにならんだ次の瞬間、後方へ飛び去った。

 濃い緑色の地に白い文字で、〈人口五〇〇人〉と、その標識にはうたってあった。荒野のまんなかで巨大な空をあおぎ見ては強い風に叩かれている人口五〇〇人の小さな町の名は、LOVEといった。

 しばらく走ると、LOVEの町全体が前方に見えてきた。まっすぐ抜けていく二車線のハイウェイの両側に、荒野にかろうじてへばりついているような建物がいくつか散らばっている。それが、LOVEの町のすべてだった。

 板壁に大きくGASと書きつけたジェネラル・ストアの前で、ぼくはキャデラックのスピードを落とし、右へターンした。ハイウェイの右側にあるそのジェネラル・ストアの敷地へ、ぼくはキャデラック・エルドラードを向けた。真正面から吹いてくる強いヘッド・ウインドに対してキャデラックが横腹を向けると、風の力に押されて後輪がかすかに滑った。

 ガソリンの給油ポンプの前にとめ、ぼくはエンジンを停止させた。悲鳴のような風が、荒野に吹き渡った。悲鳴は、キャデラックの内部に充満し、車体が共振した。給油ポンプまでの短い距離を歩くあいだにも、ぼくは、風に乗って飛んでくる砂の攻撃を全身で受けとめなくてはならなかった。手の甲に砂が当たると、思わず本気で顔をしかめるほどの痛さだ。頬や首すじに当たると、もっと痛かった。ぼくは、ジャケットの衿を立て、首をすくめ、風が吹いていく方向に体を向け、エルドラードの燃料タンクにセルフ・サーヴの給油をおえた。ぼくは、ジェネラル・ストアに向かって風のなかを歩いた。顔に当たる砂は、痛いだけではなく、冷たくもあった。

 ジェネラル・ストアの木製の階段をあがり、ドアを開いて店のなかに入った。ドアがぼくのうしろで閉じると、悲鳴のような風やその風に乗って飛んでくる砂を、かろうじて外に置き去りにすることができた。そして、風の音は、ラジオから出てくる音楽に入れかわった。ダンス・バンドの演奏する、甘くて可愛らしいワルツ曲が、店の奥にあるカウンターのほうから聴こえてきた。レコードやテープの再生ではなく、ラジオだということは、音の雰囲気ですぐにわかった。

 ぼくは、店の奥へ歩いた。人口五〇〇人の小さな町の日常生活に必要なありとあらゆるものが雑然と陳列してある店内には、そのような品物それぞれの香りがひとつに溶けあった結果としての香りが、静かに充満していた。どこかにあるラジオから聴こえてくるダンス・バンドのワルツも、その香りの一部分だと言ってよかった。

 カウンターのなかには格子じまのシャツを着た、背の高い初老の男性がひとりいた。 ダブル・バーガーをふたつ、そしてコークを大きな紙コップに一杯、テイク・アウトしたいのだとぼくはその男性に告げた。

 彼が調理場でダブル・バーガーを用意しているあいだ、ぼくはカウンターの椅子にすわって待っていた。店内を見渡しながらワルツを聴いた。ラジオは、カウンターの内側の棚に置いてあるのだった。甘く可愛いらしいワルツが終ると、同一のバンドによる同じような雰囲気のワルツが、はじまった。編曲の技法も、まるっきり同じだった。

 調理場から、やがて店主が出てきた。大きなペーパー・ナプキンにくるんだ二個のダブル・バーガーと、コークを満たしてふたをした紙コップとを、カウンターに置いてくれた。紙コップは、紙バケツと言っていいほどの大きさだった。

 ぼくがどこから来てどこへ向かいつつあるのかということを中心にしたごく簡単な世間話を交わしながら、ぼくは店主に料金を支払った。ダブル・バーガーとコークを持ち、ぼくは店の出入口に向かって歩いた。すでにとっくの昔にできていて電子レンジであたためなおしただけのダブル・バーガーだが、ひとつにはケチャップを、そしてもうひとつにはマスタードを、それぞれたっぷりかけてもらった。紙ナプキンごしに、ふたつのダブル・バーガーはぼくの掌に温かだった。

 ぼくは店の外に出た。風と砂とが、ぼくをめがけて吹いてきた。カウンターのなかのラジオから聴こえていたワルツのつづきを想像しながら、ぼくはキャデラック・エルドラードへ歩いた。ドアを開き、運転席に入った。助手席の背によせてコークの紙コップを置き、それを片側から押えこむように、紙ナプキンに包んであるふたつのダブル・バーガーを置いた。

 キャデラックのエンジンを始動させ、悲鳴の風に向けてゆっくりと発進させた。ガソリンの給油ポンプの前で大きく半円を描き、ぼくは二車線のハイウェイに出ていった。向こう側の車線へ曲がりこむとき、エルドラードは再び側面から風を受け、荒れたアスファルトの路面のうえで後輪が滑った。たてなおし、ヘッド・ウインドに向かって、ぼくはエルドラードを加速していった。

 外には風が吹き、空にはやはりいちめんに灰色の雲が厚く流れつづけ、ぼくのエルドラードの運転席にはダブル・バーガーの香りがほのかに漂った。ガラス越しに空を、そして荒野を見渡しながら、このダブル・バーガーを温かいうちに食べてしまう作業のことをぼくは思った。

(『すでに遥か彼方』1985年所収)

関連エッセイ

1月17日 |弁当


2月10日 |思い出すのはアメリカ式朝ごはん


6月5日 |雨と霧と雲と


8月26日 |ラスト・アメリカン・カウボーイ


9月27日 |ハイウェイのある風景に挽歌がスニーク・イン


10月17日 |空という偉大な絵画


10月27日 |オン・ザ・ロードとは


1985年 『すでに遥か彼方』 アメリカ キャデラック・エルドラード クーペ コーク ジェネラル・ストア ハイウェイ ハンバーガー 自動車 荒野
2017年1月18日 05:30
サポータ募集中