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ヒロの一本椰子

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 昔のハワイ人たちは森林をおそれていた。メネフネなど、不思議な生き物が森のなかにたくさん住んでいるのだと信じていて、そのため、たとえば森のなかに住居をつくったりはせず、海岸の水ぎわの、森のないあたりに小屋を建てて住んでいた。

 非常に厳格なタブーの制度が、昔のハワイにはあった。社会はカースト制になっていて、いちばん位が高いのは王であり、その次は酋長たちだった。一般の平民の位は、下から二番目だった。いちばん下は賤民だったから、事実上は平民がいちばん下だった。

 さまざまな神の代理人として君臨していた王や酋長たちは、自分たちが神からさずかっている権力を守るために、複雑なタブーをたくさんつくりだし、そのタブーを自分たちも守ったし、平民たちにも守らせた。

 昔の人々が森林をおそれていたのは、このタブー制度のせいでもあるのだが、畑をたがやし海で魚をとるという、身のまわりの自然を相手にしたごく単純で素朴な経済が土台だったから、自分たちに食べものをくれている自然に対して、手荒なことはする気になれなかったということもきっとあるだろう。それに、自然を乱暴に扱ってこわしてしまうと、その自然は二度と自分たちに食糧その他の必需品をくれなくなってしまう。

 王や酋長たちのために鳥の羽根でケープをつくるには、珍しい鳥をつかまえてきれいな色の羽根をあつめるのだが、鳥を殺したりはせず、一羽からすこしずつ注意深く羽根をぬいては放してやり、再び羽根が生えるのを待った。コアの樹を切り倒したときには、その場に苗木を何本も植え、樹があったところには再び樹が生えるようにした。

 ハワイ全島を統一して平和をもたらしたカメハメハ一世が一八一九年に病没すると、そのときすでにハワイでは珍しい存在ではなくなっていたヨーロッパやアメリカの白人たちからの間接的な影響により、それまでのハワイ社会の秩序の土台となっていたタブーの制度が崩壊してしまった。

 それと前後して、アメリカの交易商人たちが、ハワイのサンダルウッド(白檀)の樹を中国の広東へ持っていって売る商売をはじめた。

 タブーのなくなってしまったハワイでは、サンダルウッドの樹が、かたっぱしからめちゃくちゃに切り倒された。サンダルウッドを交易商人に売ったおかねで、酋長たちはヨーロッパやアメリカからさかんに品物を買った。なんでもいいから手あたり次第に買いこんでいたようだ。住居も、ボストンあたりでいったん建てたのを解体して船でホノルルにはこばせ、再び組み立てるというようなことをやっていた。

 やがて、これから切り出すサンダルウッドをあてこんでツケで品物を買うようになり、ツケの額はどんどん増えていった。だが、切るべきサンダルウッドが早くも底をついてしまい、ハワイの王室や上流階級は白人の商人たちに対して巨額の負債を負うことになった。馬鹿げた買いもので一時は国庫の手持ち現金が五百ドルくらいになってしまったこともある。この弱みに白人たちにつけこまれることによって、ハワイ王国が消滅する遠因がつくられていった。

 切り倒されたのは、サンダルウッドだけではない。シダの樹は、ベッドやソファのマットレスのなかにつめるクッションとして、大量に中国へ持っていかれた。ホノルルやラハイナがアメリカの捕鯨船の中継基地になると、パンダナスの樹を切ってつくる薪が、鯨の油を処理するカマをたくために、おなじく大量に消費された。

 野生のヤギ、豚、牛などが山林を荒らしてまわっていた。そして、ハワイに砂糖産業が定着すると、燃える樹ならなんでもいいから切り倒し、製糖のための燃料にしてしまった。

 二十世紀になるころには、人里を遠くはなれた高地にしか、森林はのこっていなかった。このころになると、町づくりや道路づくりがさかんにおこなわれるようになり、樹はさらに頻繁に、大量に切り倒されるようになった。

 昔から大地に生えている樹は、とにかく切り倒さないで守ることにしよう、という動きがはじめて具体化したのは、一九〇九年の夏のことだ。

 当時のハワイ島のヒロに、一本の有名な椰子の樹があった。ワイワイヌイ通りとカメハメハ通りの交叉点ちかく、道路のまんなかにひょろっとまっすぐ、一本だけ高く生えていた。

 写真が残っている。当時の木造二階建ての商店の二倍ちかい高さだ。てっぺんには葉がついているけれど、相当な樹齢なのだろう、葉の広がりにいきおいはない。しかもこんなに高くては地上に樹影をつくることもできない。

 地元の名物のような樹として、ただそこに立っているだけだった。なんの役に立つというわけでもないのだが、そこにそのような樹が立っているのは、やはりいいことだった。

 ある日、交叉点を曲がろうとした自動車が、この椰子の樹に接触した。この椰子の樹は自動車交通の障害になる、という意見がどこからともなく出てきて、切り倒してはどうかということになった。

 地元の長老たちは、椰子の樹を切り倒すことに反対した。婦人団体の助けを得て、その椰子の樹に関して保護条令をつくるよう、ハワイ郡に対してはたらきかけた。

 ハワイ郡条令第三九条が、こうしてできて一九〇九年八月一日付をもって発効した。ハワイ郡の郡政執行者の通常評議会で許可を得ないかぎり、歩道、ハイウエイ、私有地に立っている樹を切ったり枝をはらったり私用に供したりすることは、個人でも団体でも企業でも、いっさいできない、という条令だった。

 ヒロの一本椰子は、これで無事に生きながらえることになった。十一月十六日付のヒロの日刊紙『ヒロ・トリビューン』が、樹や森林の保護について、社説で書いていた。

 あくる年、一九一〇年になって、この椰子の樹に、再び危機がおとずれた。ワイワイヌイ通りとカメハメハ通りの交叉点にあったハックフィールドという会社が、木造二階建ての建物を道路の反対側に移し、そのあとにコンクリートづくりの建物を建てようとした。だが、いろいろ寸法をはかってみると、椰子の樹がじゃまになって建物を道路の反対側に移すことは無理だとわかった。一本椰子を切ってしまえ、と請負技師は言いだし、この椰子は「公共の安全をおびやかしている」と、つけ加えた。

 婦人団体がまた動いた。椰子を切り倒すことに反対の人たちの署名をあつめ、評議会にかけあった。そして、あの椰子を切り倒すつもりはありません、という返事を書面でとりつけた。評議会議長ジョン・ルイスの署名があったが、このジョン・ルイスは、ハックフィールドの建物を移動させる仕事を請け負った男だった。

 電柱をどかせば、椰子の木を切らなくても建物を移動できることがわかっていた。建物を移動させる作業がはじまった日の朝、ヒロ電気会社に、電柱を一時的に移動させてほしい、と交渉した。実費をハックフィールドあるいは郡が支払ってくれるなら、電柱の移動に応じる、とヒロ電気会社はこたえた。ジョン・ルイスは、両方の利益を代弁していたから、実費なんか払えない、とことわった。

 建物を移動させる作業がはじまっていった。人がたくさん集まって、見物していた。やっぱり椰子を切り倒すのでしょう、とつめよってきた婦人団体に、ジョン・ルイスは、「切り倒しはしません。一時的にちょっと曲げて、建物をとおらせるだけです」と、こたえた。

 ふたりのハワイ人が椰子の樹にのぼっていき、葉のすぐ下に、ロープをかたく結びつけた。

 そのロープをウインチでひっぱると、すこしずつ椰子の樹は曲がっていった。てっぺんが地面につくほどに曲げても、折れたりはしなかった。だが、椰子の樹は年をとっていた。根が衰えていたし、交通の頻繁なしかも道路という固い地面の下に立っていたものだから、充分に根をはれずにいた。

 枝根が土のなかから次々にはじけとぶように出てきて、見物人たちのほうに泥をはねとばした。かまわずに、ジョン・ルイスはさらに椰子の樹を曲げさせた。

 根のぜんたいが土中からとびだしてきて、土煙が舞い、見物人たちの頭上に泥がいっせいにふりかかった。椰子の根は完全にすっぽ抜け、椰子は朝の陽を浴びて道路に横だおしになった。

 近くのヒロ湾までひきずっていかれたその椰子の樹は、そこに放置され、何日か波に洗われてジョン・ルイスは、次のように言いのがれた。

「お約束どおり、切り倒すことはしませんでした。ちょっと曲げてみたら自然にひっこぬけたのです」

 八十年、百年と生きてきた樹をめぐって、おなじようなことが何度ハワイでくりかえされたかわからない。自動車のために道路の幅を広げる必要がおこると、ほとんどそのつど、古い樹が犠牲になってきた。道路が勝った場合もあるし、樹が勝った場合もある。たとえ勝ったとしてもいつまた切り倒される危機にみまわれるかわからない。

 ロバート・ウエンカムは『ハワイ』(一九七二年)という本のなかで、『樹を殺すには』と題してこの一本椰子のことについて書いている。

(『町からはじめて、旅へ』1976年所収、底本:片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』1995年所収)

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1976年 1995年 『町からはじめて、旅へ』 アメリカ エッセイ・コレクション ハワイ 片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』 自然
2016年12月30日 05:30
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