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だから三歳児は泣いた

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 二十五歳のとき、僕は自分の写真をすべて捨ててしまった。ゼロ歳から二十五歳までのあいだに、僕の手もとにいつのまにか蓄積した写真、たとえば誕生日に撮った写真やどこかへ旅行したときの記念写真、親戚の人や友人たちが、なにかのときに撮ってくれたスナップ写真など、一枚も残さずに捨てた。

 何冊ものアルバムに貼ってあったり、整理されないままに靴の空き箱やクッキーの空き缶などに入れてあった写真を、そしてネガのあるものはネガも、みんな捨てた。そのような写真が身辺にあるのが、うっとうしかったからだ。捨ててせいせいした気持ちになった。僕にもはや過去はない、などと僕は冗談を言っていた。

 十年ほど前、三歳のときの僕の写真を、ハワイの知人からもらった。僕の父親の幼友達の奥さんが、夫を亡くしたあと、ラハイナで静かにひとりの生活を送っていた。彼女の夫が四十年ほど前に、自分で建てた家に、それまでどおり、彼女は住み続けた。僕にとっても懐かしい家だから、たまに僕はその家と彼女を訪ねていた。

「写真を整理していたら、こんなのが出てきた」

 と言って、彼女は一枚の写真を僕に見せた。縦が十センチ、そして横が七センチという、じつに正しいサイズの、たいへん良く出来た白黒の写真だ。写っているのは幼い僕だった。この写真には見覚えがあった。捨てた写真のなかにこれもあった、と僕は思った。「ヨシオ、三歳の誕生日」と、裏に英語で走り書きがしてあった。

「誕生日に写真屋さんで撮って、お父さんが私たちにも送ってくれたのよ」

 と、彼女は言った。

「これは僕ですね」

「あなた以外の誰でしょう」

 自分で持っていなさいと彼女は言うから、僕はその写真をもらった。いまもそれは僕のところにある。

 写真はいっさい変色していない。印画紙の出来ばえの良さと質の高さは、いまではどこを探しても手に入らない種類のものだ。縁が浅いレリーフのように浮き出ている。裏からの型押しではないから、このサイズで最初からこう作ってあったのだ。撮った写真館主の腕は確かだ。僕のポーズも悪くない。白黒とひと言で言うけれど、その白さは落ち着いた真珠のような白さであり、黒はごく淡くグリーンを溶かし込んだような、複雑で微妙な黒だ。

 この写真が撮影された頃、東京の文化はおそらくその頂点をきわめていたのではないか。その頂点から、戦争への急坂を転げ落ち、底まで落ちて完敗した。戦後は確かに焼け跡から復興したけれど、その復興は江戸以来の一極集中がさらに厳しく統制され、巧妙に強力に遂行されるという中心軸に、からみついてのものだった。いまの東京になにかあるとするなら、それはこの一極集中の成果だけだ。

 写真のなかの僕は、三歳になったばかりの、東京の山の手のおぼっちゃんだ。本当のおぼっちゃんなら、写真屋さんが自宅へ出張して来るはずだ。可愛らしい服を着て両親に手を引かれ、写真館まで歩いていって撮ったのだから、これはまぎれもなく庶民のしわざだ。

 白い靴、淡いブルーの靴下、白い半ズボンに白いジャケット、淡いピンクのシャツ。色の取り合わせは、おそらくこんなふうだったろう。ぼっちゃん刈りの頭に帽子を載せている。シャツの喉もとにはリボンが結んである。どれもみな、アメリカにいた親戚の人たちが、送ってくれたものだ。これは誰がくれた、これはあの人と、遠い昔、両親が語り合っていたのを、かすかにぎりぎり、僕は記憶している。

 写真館のスタジオに、撮影のための背景として作ってあった丸い柱を背にして、三歳の僕は立っている。僕は兎のぬいぐるみを片手に持っている。僕のものではない。持ちなさいといって無理に持たされたものだ。僕は小さな手で兎の片耳を持ち、腹の前にかかげている。

 なぜ僕は兎のぬいぐるみを持たされたのか。写真館でその写真を撮るにあたって、僕は泣いたからだ。かなり泣いたらしい。両親がそう言っていた。僕をなだめようとした写真館主は、用意してある小道具のなかから兎を選び、僕に持たせた。ふと泣きやんだその瞬間、写真館主はフラッシュを焚いてシャッターを切った。僕はけっして楽しそうではないが、寸前まで泣いていたようには見えない。写真館主はうまく撮る人だったようだ。

 僕は写真館でなぜそんなに泣いたか。よそいきの服を着せられ、写真館へ連れていかれ、そこで写真を撮られるということぜんたいが、少なくともそのときの僕は、嫌だったからだ。僕は無理に連れていかれた。三歳の誕生日に写真を撮ることは、大人にとっては意味のあることかもしれないが、三歳児にとってはなんの意味もない。

 写真館という場所は、写真を撮るという現実の行為のための場所だ。はっきりした特定の目的という、大人の現実があらわになっている場所だ。無理に服を着せられた三歳児は、そこへ無理に連れていかれた。両親そして写真館主という三人の大人に見られながら、そこで三歳児は写真機と向き合って立たなくてはならない。

 木製のがっしりした三脚は、大きなものに見えたはずだ。その三脚の上に、かなりのサイズの四角くいかめしい箱が載っている。その箱のまんなかから、レンズが自分を狙っている。黒い大きな布を頭からかぶって、館主は三脚と写真機の背後に隠れる。

 嫌だ、楽しくない、不愉快だ、怖い、違和感がある、こんなことしたくない、というような気持ちがひとつになると、三歳児としては泣くほかない。泣かない三歳児は多いはずだ。言われるとおりにして、にこにこと笑顔になったりもするだろう。僕は違っていた。僕は泣いた。持たされた兎のぬいぐるみによって、僕の気持ちはほんの少しだけ、落ち着いたのではなかったか。自分よりもはるかに小さな柔らかいものが手のなかにある、という状態が生む安心感のようなものが、ほんのしばらく、僕を泣きやませた。

 僕は三歳の夏に初めて海を見た。このときの僕も泣いたという。三歳の夏の日、僕は鎌倉の材木座の海へ連れていかれた。息子に海を見せてやろう、と思った父親が連れていった。薄曇りの日だった。これは覚えている。海は濃い緑色の、平らで広い景色だった。嫌いな野菜ジュースによく似た色だった。野菜ジュースがこんなにたくさんある、さあ困った、どうしよう、というのが海に対する僕の第一印象だった。

 三歳の坊やは砂浜に降り立つ。父親に手を引かれ、波打ち際へと歩いていく。そして途中で立ちどまり、泣き出す。理由ははっきりしている。波が怖かったからだ。波が怖い、と言って僕は泣いたそうだ。

 砂浜に寄せていたその日の波は、ごくおだやかな日の砕け波の、いちばん最後の部分だった。寄せては返すという、あの波だ。波打ち際へ這い上がりきると、あとはただ退いていくだけという、ただそれだけの波だ。

 ただそれだけの波ではあっても、横に長く一列につながり、いっせいに砕けながら、その音とともに砂浜に向かって移動してくる様子は、それを初めて見る三歳児にとっては、かなり異様なものなのではないか。海だとか波だとか、三歳児にはなんのことだかわからない。横に長く不気味につらなり、上のほうから砕けつつ、聞いたこともない音をたてて、こちらに向けてそれはいっせいに動いてくる。そのぜんたいが怖く泣いたのが、三歳の僕だった。波が怖いと言ったそうだから、すでに波という言葉は知っていたのだ。

 四歳の春に、僕は東京から山口県の岩国へ、引っ越した。その頃の日本はアメリカを相手に無謀な戦争をしていて、こてんぱんにやられつつあった。東京はB-29という爆撃機によって、無差別に爆撃されていた。東京は危険だから岩国まで離れればいいだろう、と両親は思った。爆撃は日本全国の都市を対象に、徹底しておこなわれた。岩国も爆撃を受けた。

 祖父の出身地の近くにあった祖父の家に、僕は住むこととなった。時代と状況とを反映した言葉を使うなら、身を寄せることとなった、という言いかたがもっとも近いかと思う。いまのJR岩国駅から、西に向けて歩いて二十分くらいのところに、その家はあった。

 僕たちの乗った汽車が岩国駅に到着したとき、日はちょうど暮れたところだった。歩いていくにつれて暗くなり、夜の始まりとなった。歩いていく道は、中国山脈の南側の、山裾のいちばん端に向けて、少しずつ接近していった。山というほどのものではないのだが、僕は山というものをそのとき初めて見た。

 四歳の子供にとって、その山は充分に大きいものだった。黒いシルエットになって高く立ちふさがり、不思議なかたちでずっと向こうまで続いていた。歩いていく道は山裾へと接近していく。黒い山は自分たちに向けて動いてくる、と四歳の僕は感じた。山が怖いと言って、僕は泣き始めた。

 道はやがて民家のならんでいるあたりへ出た。家々の明かりが見えた。東京の目白とはまるで違うから、違和感は大きい。僕はますます泣いた。待っていた祖父や親戚の人たちの前に、四歳の僕は泣きながらあらわれた。

 写真館も鎌倉の海も岩国の山裾も、手続きとして最初に一度だけ泣いてしまえば、あとはなんともないという性質のものだ。その後の山や海は、けっして唯一ではなかったけれど、気持ちとしては無二の遊び場となった。写真館のことは、四歳のときにはすでにとっくに忘れていた。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 二〇〇〇年

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2016年12月10日 05:30
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