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自分のことをワシと呼んだか

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 四歳から十二歳までを、僕は瀬戸内で過ごした。山口県の岩国と、広島県の呉というところに、ほぼ四年ずつ。どちらの地方の言葉も、自分は地元の人たちとおなじように使えたし使っていたはずだと、長いあいだ僕は思ってきた。

 岩国の言葉や呉の言葉を使っている自分に関する記憶は、とっくにない。そのような記憶はもう消えている。言葉を喋る行為は毎日かならずあったはずだが、その地方を離れて三十年四十年と時間が経過すると、山口や広島の言葉を喋っていた自分についての記憶が消えていくのに反比例して、自分はどちらの地方の言葉も地元の人たちとまったくおなじように喋っていたはずだという勝手な思い込みが、僕の頭のなかに定着していった。

 子供の頃の自分が、どちらの地方の言葉も地元の人たちとおなじように喋っていたという記憶は単なる思い込みであり、したがってそれは間違いなのではないか、ということに僕は最近になって気づいた。気づいたきっかけは人称の問題だった。どちらの地方でも男の子供たちは自分のことを、日常的にはワシと呼んでいた。自分のことをワシと呼んでいた自分が果たしてあり得たかという問いを自分に対して発すると、そんなことはまずあり得ないという答えしかないことに、僕は気づいた。

 自分のことを日常的にワシと呼んだ自分が、記憶のなかにまったくない。ワシという自分をいくら記憶のなかに探しても、そんな人は見つからない。記憶が薄れに薄れ、最終的には消えてしまったから、それゆえにその人は記憶のなかにいないのではなく、自分のことをワシと呼んだ自分が、そもそも最初からいなかったのではないか。

 いまの僕よりずっと年上の人、つまり、もはや生存者と言ってもいいような人の証言を僕は幸いにも手に入れることが出来た。「あんたはずっと東京のもんよ。あんたひとりだけ東京の言葉を喋りよった」と、その生存者は自信を持って言った。瀬戸内にいた八年間、僕は東京の言葉でとおしたのだ。東京から岩国へと移るとき、この引っ越しは戦争という特殊な状況によって無理やりに引き起こされたきわめて不本意なことなのだと、身辺にいた人たちから僕は何度も聞かされた。

 そして岩国と呉にいたあいだは、これはごく一時的な仮の出来事なのだと、おなじく身辺の人たちから、僕は繰り返し聞かされた。幼い僕は、このどちらをも、理解したようだ。そしてその理解に対して、幼いなりに筋を通そうとすると、地元の言葉は使わずに東京の言葉のままでいる、という選択をしなければならなかった。

 岩国でも呉でも、自分自身に関する僕の自覚は一時的な滞在者であり、地元の人ではなかった。そのことを自らに確認するかのように東京の言葉でとおした僕は、少なくとも印象としては、相当に変わった子供だったのではないか。どこの方言も僕は嫌いではない。いろんな方言を喋ることが出来ればいいのに、と思う。しかし、いくら真似しても、地元の人のように喋ることは、とうてい出来ない。中途はんぱな真似はしないほうがいいにきまっている。だからいまの僕は真似しないが、子供の頃には真似をしていた。方言による喋りかたの真似は、僕にとっては面白い遊びのひとつだった。

 たとえば自宅へ客が来ると、その客の喋りかたをずっと聞いていて、客が帰ったあと、僕はその人の喋りかたを真似して遊んだ。自分では使うことのない言葉のつらなりとその抑揚は、外国語のようで面白かった。自分では使わない言葉のつらなりとその抑揚とは、それによってなにが語られる場合でも、自分の言葉にはない視点の取りかたであり、そこからの論理の進めかたであった。人の方言を真似している僕は、自分の言葉にはない視点と論理の経路とを、仮想的にたどって遊んでいた。

 聞いたばかりの喋りかたをすぐに真似してみるだけという限定つきで、子供の頃の僕は、岩国と呉の言葉を操ることが出来た。いまでもその名残が僕のなかにある。なにか課題センテンスをあたえてもらえれば、それをなんとなく岩国や呉の言葉らしく作り替えることが出来るという名残だ。

 「広島カープがまた負けたから、いまの私は機嫌が悪い」というセンテンスは、「広島カープがまた負けよったけぇ、わしゃあ、ぶちはぶてちょる」とすれば、広島弁になっていると思う。言葉のつらなりよりも、それを音声にするときの抑揚のほうを自分はより得意にしている、と自分は思っている。

 「ちょる」という語尾は、特に呉では多用されていたようだ。呉の人はなにかといえば語尾を「ちょる」とするから、「呉のちょる、ちょる、また来ちょる」などとからかわれていた。「ちょる」「ちょった」「ちょりよる」「ちょろうがや」「ちょらんけえ」などと、面白く変化する。「いまはそう言っているけれど、あとになると話はまた別なのではないか」というようなセンテンス、つまりものの考えかたの経路は、「いまはそがいなことを言やあするが、あとになってみりゃあわからんでよ」とでも言えば、なんとなく山口県ふうでいいなら、これで充分だと思う。

 方言は真似して遊んだだけであり、自分自身の言葉としては東京言葉でとおした自分についてさらに考えていくと、小さな謎に突き当たる。僕は東京言葉をそもそもどのようにして覚えたのか、という謎だ。

 東京に生まれてそこで四歳まで育ったのだから、東京言葉はいつのまにか身について当たり前だろう、と多くの人は思うだろう。東京言葉を身につけるための、幼い僕にとってもっとも身近な環境は、僕にはなかった。父親は日本語はろくに出来なかった。少なくとも幼い僕が真似して覚えるためのお手本ではなかった。母親は、近江八幡、奈良、京都、大阪などの関西弁で、一生をとおした。

 ラジオ局のスタジオでマイクに向かって喋る仕事を、僕は合計で十五年ほど続けたことがある。マイクに向けて喋っているときの自分を、いま僕は思い出している。どの方向への偏りも可能なかぎり小さく抑えた、たいそう中立的な、しかし標準語とは自分では言いたくないから、とりえあずは東京言葉としか言いようのない種類の言葉を、僕は自分の言葉としてなんの無理もなく喋った。それ以外の言葉を使うことが出来なかった、という言いかたをしてもいい。

 いま自分が使っている、たしかに日本語ではあるけれども、どこの日本語とも知れないこの言葉こそ自分自身なのだという確認を、ラジオの仕事をとおして、僕は何度となくおこなった。そのような言葉を、では僕は、いつどこで、どのようにして身につけたのか。

 瀬戸内から東京へ戻ってからは、ずっと東京だった。東京言葉は日常のなかにいくらでもあるのだから、自分の言葉が以前にも増して東京言葉となっていったであろうことは、疑いない。そしてそのことになんの不思議もない。しかも、幼い頃に東京言葉はすでに自分のものとなっていて、瀬戸内ではその言葉でとおしたという実績すらある。僕はなにを言いたいのか。自分の言葉を、自分はどのようにして身につけたのか、つまり作ったのかという謎を自分で解いてみようとしている、ということを言いたい。

 瀬戸内へ移るまでに身についた東京言葉が、僕の使う日本語の基礎となったことは、まず間違いないと思う。幼い僕の身辺にいた人たちの音声として受けとめた言葉を、幼い頭のなかにためておき、それを僕なりに整理しなおした東京言葉だ。

 僕なりに整理しなおした東京言葉とは、いったいなにか。幼い僕の身辺に、じつにきれいな東京の女言葉を喋る二十代の女性がひとり、ほとんどいつもいたという。じつにきれいなとは、どちらの方向にも偏らない、したがっていっさいなにふうでもない中立的な東京言葉、というような意味だ。彼女のそのような言葉から、女言葉の要素を抜き去ったあとに残るものを、整理しなおして作った言葉が、僕の日本語の基礎になったのではないか。

 自分の日本語の基礎となった言葉は、かなりのところまで整理されて中立的にきれいになった、人工的に作られた言葉だったようだ、といま僕はほぼ断定して楽しむ。そしてこんなふうに考えてくると、瀬戸内で過ごした全期間を東京言葉でとおしたことを、自分らしさそのものとして僕は受けとめなおすことが出来る。

 一時的な滞在者にとって、整理され作りなおされた東京言葉は、自分の言葉としてたいそうふさわしい。ふさわしいからこそ、たいへんに適しているからこそ、幼い僕はその言葉でとおすことが出来た。自分の頭のなかで整理しなおし、作りなおした、どの方向に向けても大きく傾くことのない、出来るだけ中立的な、したがって土着的な根のようなものをどこにも持たない、僕ふうの東京言葉。

 僕が自分の日本語として獲得したのは、このような言葉だった。そしてその言葉の基礎は、四歳までにすでに固まっていた。四歳の頃の僕が身を置いていた東京やその時代は、消えつくしてもはやどこにもない。当人である僕にとっても、そんな東京とその時代がかつてあったことだけは確かなようだ、としか言えないほどに、まずなによりも時間的に遠い。しかし、いまの僕と四歳の頃の僕とのあいだには、それほどの差はないと思う。

 東京へ戻ってきた僕は世田谷の一角に住みつき、まず中学生としての三年間を過ごした。ほかのどの地方から見ても、まさに方言でしかないような東京の子供の言葉を、僕は日常的に使っていたはずだ。高校生としての三年間には、少年の乱暴な言葉を使ったに違いない。そして大学生の四年間に、乱暴な少年の言葉は、当時の大学生の言葉へと、延長されていった。

 中学、高校、大学と、合計で十年間の表層における僕の言葉は、以上のようにごく普通のものだったはずだ。そしてその表層の下では、僕によって幼い頃すでに整理されなおされ作りなおされた自分だけの東京言葉が、底流として続いていたはずだ。そしてその言葉が、文章を書く僕にとっての書き言葉へと、ごく当然のこととして、必然的に、そうなるべくして、きわめてすんなりと、つながっていったのではないか。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年

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2016年10月26日 05:30
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