夏を過ぎても楽しめる 片岡義男のサーフィン・エッセイ
作家・片岡義男と聞いて多くの方がイメージするもののひとつに「サーフィン」があります。彼自身が「小説デビュー作」と位置付ける『白い波の荒野へ』(1974)もハワイ・カワイロア海岸を舞台としたサーファーたちの物語でした。その後『8フィートの週末』『シュガー・トレイン』『巨大な月曜日』といった小説を発表しますが、それらと並行して雑誌などで数多くのエッセイを書いています。
その内容はサーフィンに関わるさまざまな事物の紹介に留まらず、サーフィンの歴史や波の科学、さらには身体論、都市論、そして人間の存在のあり方などにまで及びます。これらはサーフィンが単なる娯楽ではなく、自己探求や創造的な挑戦の場であるという考え方に貫かれており、サーフィンを知らない人々にもその魅力を感じさせる内容となっています。実際、1970年代から80年代にかけて彼の小説やエッセイに影響を受け、サーフィンを始めた若者は日本には多数いるとも言われています。
今回はこうしたさまざまな角度から書かれた片岡義男のサーフィンに関するエッセイからいくつかをご紹介します。
1)「波が君を変える! あるいはサーファーになるということ」
片岡義男がサーフィンについて書いた中ではおそらく最初期のもので、映画『エンドレス・サマー』観賞後に書かれたエッセイです。片岡義男にとってこの映画の感動は、幼い頃に「瀬戸内の明るい海と砂浜」で過ごした原体験に直接繋がっているといいます。その後ハワイや東京でもこの映画を観て、ハワイだけでなくサモア、フィージー、ニュージーランドなどの海を実際に見て回ったことも書かれており、それが後年小説『白い波の荒野へ』の執筆へと結実したことが窺えます。
(初出『宝島』1975年9月号/『町からはじめて、旅へ』晶文社 2015年改版[1976年初版]所収)
2)「いつも靴をはいている足の悲劇」
都会で生きる人々は、外出時にはほとんど靴を履いています。下手をすると室内で靴を脱ぐ習慣のない方もあるでしょう。靴を履いている限り、私たちの肉体は都会での生活に合うよう、無理やり体を合わせているとも言えます。サーフィンを生活の中心に据えると、自ずと靴から草履などに履き替えることになりますが、しばらくすると足の裏から伝わる感覚が全く変わっていることに気がつくはずです。都会の窮屈さを捨て、本能が持つ感覚を取り戻すこと、それがサーフィンへのまず第1歩である、と片岡義男はこのエッセイで説いています。
(『サーフシティ・ロマンス』晶文社 1978年所収)
3)「波乗りとは、最終的には、心の状態だ」
かつて『彼のオートバイ、彼女の島』(1977年)の単行本のカバーに書かれていた「夏は単なる季節ではない。それは心の状態だ」というコピー。この「夏」がサーフィンに変化したタイトルですが、サーフィンが単なる趣味やスポーツではないことを示す端的な表現として今も多くのサーファーの心に生きています。このエッセイでは、ハワイに大昔から伝わるロ承の中に残るサーフィンに関する言葉をイントロダクションとして、男女差別や格差、制度といったものが何も通用しなかった古代のサーフ・ライフについて語ります。
(片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』太田出版 1995年所収)
4)「誰がいちばん初めに波に乗ったのか」
サーフィン自体の起源は実ははっきりとはしておらず、ハワイを含むポリネシア全域で古代から広く普及していたようです。ただ、ハワイではサーフィンは単なる遊びやスポーツではなく生活の一部でもあり、身分や性別に関係なく等しく万人のものであったと言われています。そんなハワイとサーフィンの古(いにしえ)からの関係を、南太平洋の島々にやってきたヨーロッパ人の記録や史実に加え、想像の羽根を広げて綴ったエッセイです。
(『サーフシティ・ロマンス』晶文社 1978年「片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』」太田出版 1995年所収)
5)「海岸の古びた一軒家で、ソリッドな食事をし煙草を吸わない」
サーフィンが単なるアウトドア・スポーツではないとしたら、何なのか。アメリカではサーフィンはウェイ・オブ・ライフであり、ひとつのライフ・スタイルである、としているようです。人は何かに魅せられると、その生活自体が大きく変わってしまうことがしばしばあります。サーフィンに魅せられた人々もその例に漏れないようで、そのありようは他者からはまるで禅の修行僧のように見えるかもしれません。
(『サーフシティ・ロマンス』晶文社 1978年「片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』」太田出版 1995年所収)
6)「サーフボードは自分自身だ」
波を相手に海に乗り出す時、人は誰もが孤独の真っ只中に放り出されます。相手は無限に変化する波。陸から見ると同じ表情を見せている波も、沖に出れば一瞬として同じ波はありません。そんな中で、サーファーの唯一頼りになるパートナーはサーフボードのみ。サーフボードはまさにサーファー自身の分身でもあるのです。そんなサーフボードの歴史とシェーパー(ボードを作る人)たちの様々な試みを紹介します。
(初出:『宝島』1977年8月号/『サーフシティ・ロマンス』『サーフシティ・ロマンス』晶文社 1978年所収)
7)「昔のハワイという時空間への小さな入口」
ハワイ・オアフ島のノース・ショアといえば、冬に巨大な波がやってくることでも知られるサーフィーンのメッカですが、この島で生まれたデューク・カハナモク(1890〜1968)をご存知でしょうか。サーファー、水泳選手であり映画俳優としても知れられる彼は、サーフィンを世界中に普及させた「近代サーフィンの父」でもあります。「ワイキキのクヒオ・ビーチで銅像は見たことがあるけれど、どんな人か知らない」という方もぜひ読んでみてください。
(初出『デューク・カハナモク——幻の世界記録を泳いだ男』(東理夫著 1993年刊)「片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』」太田出版 1995年所収)
8)「絶望のパートタイム・サーファー」
私たち日本人は現在、相当に不自然で無理な暮らし方をしているのではないでしょうか。でも今自分が身を置く場所からリタイアすれば解決するというものでもなさそうです。そこで片岡義男が勧めるのが「パートタイムのサーファー」です。都会と海という二つの世界に体を交互に置き、バランスを取ろうというものですが、その極意とは……。
『昼月の幸福──エッセイ41篇に写真を添えて』晶文社 1995年所収)
9)「濡れてます、足元にご注意を」
『スリパリー・ホエン・ウェット』(濡れてます、足元にご注意を)は、『エンドレス・・サマー』の監督ブルース・ブラウンによる最初の波乗り映画です。1959年に制作されたこの映画の音楽には、バド・シャンク率いる4人編成の楽団によるジャズの即興演奏が使われており、当時の映画音楽の世界では非常識なものでした。しかし映画とジャズという組み合わせは、当時最先端ともいえる新しい発想であり、今もその輝きを失っていません。サーフィン映画と音楽の関係を読み解く1篇です。
(『音楽を聴く2──映画。グレン・ミラー。そして神保町の頃』「第一部 ミシシッピー河の鉄橋を列車が渡っていく」東京書籍 2001年所収)
10)「彼らはなぜ海へ来るのか」
雑誌のようにさまざまなテーマの作品を1冊にまとめた『個人的な雑誌2』に収められた、海と波についてのショート・ストーリーを含む8篇のエッセイです。必ずしもサーフィンに関連する話が登場するわけではないのですが、サーフィンを知らない、経験したことのない方でも片岡の緻密な筆致により、その情景を思い浮かべながら読むことができます。
(『個人的な雑誌2』角川文庫 1988年所収)
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