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わたしの片岡義男 No.1篠原恒木「サラリーマンの誰もが抱く夢」

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篠原恒木(しのはら・つねき)さんは、光文社で片岡さんを担当する編集者。『珈琲が呼ぶ』(2018年)と『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』(2016年)、二冊の書き下ろし作品を担当。日本で一番、片岡さんと会っている編集者と噂されている。ツイッターアカウント @JJshinohara で、オンタイムの制作状況をつぶやき中!
片岡義男さんは、言葉に敏感だ

 片岡義男さんは、怒らない。
 嫌味も、皮肉も言わない。
 したがって、僕は勝手気ままに好きなことを片岡さんに言ってしまう。失礼なこともたくさん言ったはずだ。それでもまったく怒らない。一度、訊いたことがある。
「なぜカタオカさんは怒らないんですか?」
「怒ったってしょうがないだろ。怒ると疲れるよ」
 だから、というわけではないのだが、片岡さんといると、楽しい。とても楽しい。一緒に食事をしているときも、経堂や町田や下高井戸を散歩しているときも、日帰りで京都へコーヒーを飲みに行くときも、僕にとっては天国だ。毎日がこんなに楽しいと最高だな、とすら思う。片岡さんにそのことを言うと、
「確かに毎日がこうだといいよな。でも、きっとバチが当たるよ」
 と、静かに笑っている。

 片岡義男さんは、言葉に敏感だ。
「コンビニ、って言葉は嫌だよな」
 と、突然言う。
「じゃあ、文字にするときは、なんて書くんですか?」
「そうだなぁ……」
 しばらく考えてからこう言った。
「コンビニ、と多くの人が口にする店舗、かな」
「ずいぶんと婉曲的だなあ。じゃあ、ひょっとしてテレビやパソコンも嫌ですね?」
「うん。TV、PCと書くね」
「ラジオもダメですか」
「ラジオは……しょうがないんじゃない?」
 基準が分かるようでわからない。
「ジングル・ベルっていうのもおかしいよなあ」
 とも言う。
「ジングル・ベルのどこがおかしいんですか?」
「ジングル・ベルズだろ。トナカイの首についている鈴はふたつだぜ」
「いいじゃないですか、そのくらいは」
「ダメだよ、戦後何年経ってると思ってるんだよ」
 片岡さんは「~してあげる」という表現もいっさい書かないという。理由を尋ねた。
「~してあげる、と書いた時点で、そのふたりは対等な関係ではなくなるだろう。そういう関係は好ましくないんだ」
 これには痺れた。そんな話をしているうちに、ふと僕が言った。
「あ、そうだ。電池を買わなくちゃいけないんだった」
 片岡さんが言った。
「あそこのコンビニで売ってるよ」

 僕と片岡さんの付き合いは決して長くない。担当編集者になって、四年ほどになるだろうか。担当編集者といっても、僕は長いこと女性誌の編集に携わっていたので、文芸編集者ではない。片岡さんの本は『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』という書き下ろし自伝小説と、一月に刊行される、これも書き下ろしのエッセイ集『珈琲が呼ぶ』の二冊しか担当していない。片岡さんとの仕事、いや、仕事というにはあまりにも楽しすぎるな、と自分でも思うが、その作業はとにかくやたらと楽しいという感覚しかない。嫌なこと、辛いこと、悩んだことはいっさいない。月に三回ほど夕食をご一緒して、コーヒーを飲み、楽しい話をして、必要な資料、不必要な資料を僕が集めて片岡さんに渡し、またコーヒーを一緒に飲んで食事をしていると、原稿が出来上がり、写真をかき集めれば、本が出来上がっている。出来上がった二冊の本は、どちらも限りなく愛おしい。

『珈琲が呼ぶ』表紙
『珈琲が呼ぶ』

『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』表紙
『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』

 片岡さんには『給料日』という小説がある。片岡義男.comにも収録されている、実に楽しい一篇だ。一人のサラリーマンが給料を支給されてからの数時間を描いたものだ。ダシール・ハメットの短編『ホリデイ』からヒントを得たということだが、内容は圧倒的に『給料日』の勝ちだ、と僕は思う。大げさに言えば、サラリーマンの誰もが抱く夢「その日暮らし」がここにはある。
 だから僕は片岡さんにしばしば言う。
「一連の作家ものもいいですけど、サラリーマンを主人公にした小説を書いてくださいよ」
「サラリーマンはなぁ……自由度が低いからなぁ。物語がうまく前進するかな」
「じゃあ、単身赴任にしましょう。シャッター商店街がそこかしこにある地方の営業所に飛ばされたサラリーマン。これならかなり自由度は増します」
「そこでどんな女性と出会うか、だな」
 そう呟きながら、片岡さんはおもむろにメモ帳を取り出し、ペンを走らせる。
「何書いてるんですか。見せてくださいよ」
「やだよ」
 飲み終わるまであとほんの少しのコーヒーが、メモ帳のそばにある。

光文社|宣伝部 篠原恒木

今回の一冊 電子版『給料日』(1980年)

『給料日』表紙

魔都・新宿を描ききった
日本語で書かれたハードボイルド小説の最高峰

給料日のサラリーマン。懐には20万弱の金がある。
会社帰り、男は地下鉄で新宿に出る。
パチンコで金を使い、飲み屋を何軒もハシゴし、
一晩で彼はすべての給料を使ってしまう。

関連リンク

[stories 02:制作舞台裏]
書き下ろし新刊『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』ができるまで


2018年1月16日 00:00

わたしの片岡義男

不定期更新。作家、ライター、編集者……さまざまな立場から片岡作品への思いを語っていただきました。読んだことのある作品でも違った面が見えてくるかもしれません。

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