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【特集】12.8 真珠湾攻撃

【特集】12.8 真珠湾攻撃

2025年12月5日 00:00

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2025年は戦後80年という節目の年であり、8月を中心に多くの戦争特集がメディアから発信されました。1945年8月15日が「終戦の日」ならば、その始まりである「開戦の日」が必ず存在します。しかしその「開戦の日」である1941年12月8日について、多くのメディアは当の12月にはなぜかあまり取り上げません。結果として今の若い世代には、12月8日が何の日であるかを知らない人も多いのではないでしょうか。


1939年生まれの片岡義男は、真珠湾攻撃の当時はまだ2歳でした。戦争の始まりを直接知っているわけではありませんが、占領下の日本で少年時代を過ごした1人として、戦前戦後のアメリカや、その後の日本について考察したエッセイを数多く執筆しています。この特集ではその中から、真珠湾攻撃が行われた当時のアメリカの状況、意外に知られていない日本からのハワイ移民の歴史、そしてハワイと真珠湾の歴史といったテーマに焦点を当てたものを選びました。戦後80年という節目の年が終わろうとしている今、この見過ごされがちな「開戦の日」の背景を知るために、ぜひ片岡義男のこれらの作品をお読みください。



1)『結束してこそ我らは建つ。一九四二』

アメリカはその建国時から「理想の国を自分たちで作る」ことを理念として掲げてきました。その推進力の源泉は「利潤を求めて突進を続ける」資本主義にあります。そしてその背景には「科学的な合理性」という武器と「結束」が常にありました。それは戦争という営みで大いに発揮されることになります。


2)『ワンス・アポナ・タウン』

1940年代、アメリカ大陸の東西を結ぶ鉄道の中間点にあったノース・プラット駅は、戦線へ向かう兵士たちを乗せた列車が必ず通る場所でした。そこでは地元の人たちが食事を無償で振る舞い、駅はキャンティーン(軍関係者のための飲食や娯楽施設)としての機能を持つようになります。アメリカの農業国としての底力を示すエピソードですが、この時期日本では多くの国民が食糧難に耐えていました。しかしその往時のアメリカも今はもうどこにもないようです。


3)『ミッキーマウス・カントリー』

カリフォルニア州アナハイムにある、ディズニー・ランド。片岡義男がこの地を訪れたのは1961年頃でした。1日遊んで得た結論は「気味の悪いところだ」というものでした。それはなぜなのか……? 意外に知られていませんが、カリフォルニアはかつての日本との戦争における巨大基地であり、最新の科学技術による軍需産業の一大拠点でもありました。そこにはこの地が昔から持つ、ある特性が大きく作用していました。


4)『地獄を見においでよ』(「東京を撮る」51)

『Come See the Paradise』(邦題『愛と哀しみの旅路』)は1990年のアメリカ映画。アメリカ生まれの日系二世の女性と、戦争へと駆り出されたアメリカ人の夫との愛を太平洋戦争の時代を背景に描いた社会派映画ですが、タイトルの"Paradise"は強制収容所を意味します。そこで日系人たちに何があったのか。映画で使われた日本語歌詞の挿入歌と共に片岡義男が紹介します。


5)『移民の子の旅』

真珠湾攻撃が行われたのは1941年12月ですが、当時ハワイには全人口の約37%にあたる16万人弱の日系人がいたとされています。アメリカ本土(西海岸)では日系人が根こそぎ強制収容されたのに対し、ハワイで収容所に送られたのは日系人口の1%程度だったと言われています(諸説あり)。このエッセイでは、1885年に官約移民が始まる以前の日本からのハワイ移民の歴史と、ハワイそのものの成り立ち、真珠湾の歴史などについて、資料をもとに語られます。全12話の大長編ですが、ぜひ読んでみてください。


6)『古き佳きアメリカとはなにか』

アメリカは真珠湾攻撃を機に始まった太平洋戦争とともに、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦にも参戦しており、これらは「トータル戦争」と呼ばれました。そんな時期に雑誌に掲載されたフォードの新車の広告は、近隣や地域社会という、まさに絵に描いたような当時の市民が、この戦争に対してよりいっそう結束を固くしていく、という主題で貫かれていました。


7)『チャタヌーガ・チューチュー』

日本海軍航空隊による、ハワイ・オアフ島のアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃(真珠湾攻撃)は、日本時間の1941年12月8日午前3時19分に実行されました。この時、現地時間は日曜日の午前7時49分。市民の多くはいつもと変わらぬ朝のひとときを過ごしていことでしょう。その中には多くの日系人もいました。いつも戦争というものは、日常を突然破る形でやってきます。そして市民が戦争の始まりを知るのは今も昔もこのような形なのかもしれません。


8)『広島の真珠』

広島の真珠というタイトルは、広島の原爆資料館を取材した『ライフ』の記者であった、ロジャー・ローゼンブラットが語った「ノット・ア・シングル・パール・イン・ヒロシマ(広島に真珠はひと粒もなかった)」から採られています。どんな事態にせよそれを引き起こした原因つまりコーズと、引き起こされた結果であるエフェクトとは常に一対になっており、社会や世界のなかで起こるすべての出来事の基本は、コーズとエフェクトとの連鎖である。戦争もそうだ、と彼は語りました。この一言は、原爆投下という悲惨な現実を体験した私たち日本人が忘れてはならないものであると同時に、現在リアルタイムで報復の連鎖が続いている今の世界でも忘れてはならない言葉ではないでしょうか。


9)「真珠湾」よりも大切なこと

戦後の日本はひたすら経済活動に邁進し、世界に類を見ない復興と経済発展を遂げました。諸外国との間でも経済を主軸とした関係を築けば事足りましたが、これからは文化全体、すなわち「言葉の関係」に入らざるを得ず、相手に対しても自分に対しても、ドアを大きく開く機会を作らなければ進むべき道はない、とこのエッセイの中で片岡義男は述べています。そこには真珠湾が教えてくれる「ひとつの事実」があると言います。真珠湾攻撃から50年後の1991年夏に発表されたエッセイです。


And one more thing...

日系二世の父親を持ち、日本とアメリカ双方の文化を浴びて育った片岡義男。彼が自身のエッセイ作品の中で戦後とアメリカにこだわるのは、真珠湾から始まった日米戦争の終わりを象徴する「原爆の光」を子どもの頃に見たことも無関係ではないでしょう。その原爆の生みの親でもある、ロバート・オッペンハイマーを中心に進められた「マンハッタン計画」の全貌を知ることができるのが『ヒロシマ・ナガサキのまえにーオッペンハイマーと原子爆弾ー』です。

2025年3月に開催された核兵器禁止条約の3回目の締約国会議にも、日本はオブザーバーとして参加しませんでした。唯一の被曝国である私たちは、過去に対して決して無関心であってはいけないのです。


『ヒロシマ・ナガサキのまえにーオッペンハイマーと原子爆弾ー』