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酸っぱい酸っぱい黄色い水

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 戦後の小学校で僕より学年で一年だけ下だった男性が、小学校で体験した給食について、かつて僕に語ってくれた。彼のそのときの言葉を出来るかぎり思い出し、口調も写しながら、僕が再話してみよう。

「コッペ・パンというものは、給食で食べる以前に、すでに知っていたように思うんですよ。いまで言うパン屋さん、田舎のバス停の前にあるような、なんでも売ってるようなパン屋さんですね。これが自分の家の近所にあって、そこでコッペ・パンを売ってたのです。ひとつのコッペ・パンを横にふたつに切って、炊飯器ほどの大きさの缶に入っていたジャムを、へらですくい取っては、パンに塗りつけるのです。赤いジャムですよ。赤いからストロベリーだということではなくて、ジャムだから赤、という時代の産物でしょう。素朴ですよね。けっして文字どおりのジャムではないと思うんですが、材料はなにだったのでしょうか。口あたりはさっぱりしてて、甘みは充分にあって、香りもありましたね。このジャムを断面に塗ったコッペ・パンを閉じ合わせると、それがジャム・コッペです。

「最初に体験した給食は、このコッペ・パンひとつに、脱脂粉乳をお湯で溶いたものでした。教室の机に向かってみんな椅子にすわってね、新聞紙を机に広げてる子供が多かったかなあ。僕もおそらくそうしてたでしょう。新聞紙に包んでいくんですよ、脱脂粉乳を溶いたものを入れてもらう器を。僕が持っていったのは、情けない金色ないしは黄色をした、アルマイトだかアルミだかの、ボウルでした。底が平らになっていて、小さくもなく大きすぎることもなく、脱脂粉乳にはちょうどいい大きさでしたよ。これに八分目ほど注いでもらってたかなあ。ひとりずつ教室の前の教壇のところへ出ていって、脱脂粉乳のお湯溶きを注いでもらって、席へ戻るのです。瀬戸物のどんぶりやお碗を持って来ている子もいたように記憶してます。僕はボウルの側面を机の角に当てると、ぽこんと小さくへこむのが面白くてね。給食のたびにへこましてたら、ぼこぼこになって母に叱られたのを覚えてます。

「コッペ・パンは、楕円形のやつが一個ですね。これがころんと、広げた新聞紙の上にあって、そのかたわらには、アメリカの提供による脱脂粉乳のお湯溶きの入ったボウルですよ。これが最初の給食。平和と民主主義による日本の再出発ですね。コッペ・パンではなくて、小ぶりな丸いパンの場合は、それが二個です。脱脂粉乳のお湯溶きは、バケツのような容器に入れて、先生が各教室へ持って来るのでした。

「いちばん覚えてるのは、グレープフルーツのジュースです。グレープフルーツという果物のジュースだということは、先生が説明したはずですけど、そんなこと聞いたってわからないし、グレープフルーツそのものを、見たことも聞いたこともないんですから。これは缶に入ってましたね。高さが三十五センチくらいかなあ。円筒形の缶です。直径は二十センチくらいでしょう。横にリブが何本か入った、塗装されてない愛想のない缶です。なにか英語がプリントされていたような記憶があるんですが、はっきりしません。

「このグレープフルーツ・ジュースの缶詰を、先生が教室へかかえてくるんです。女の先生がいっしょに来て、理科の実験で使うような、直線で三角形に開いたガラス製のメジャー容器を三つ四つ、持っているのです。液体をCCで計るメジャー・グラスですよ。これを教壇にならべてですね、女の先生が手を添えるメジャー・グラスに、先生が缶を持ち上げて、グレープフルーツのジュースを注いでいくのです。ひとりにつき何CC、ときまってたのですね。重そうに両手で持って、慎重に注いでた先生の姿は、いまも瞼にあります。このグレープフルーツ・ジュースも、ひとりずつ前へ出ていき、容器を差し出し、そこに女の先生にメジャー容器から注いでもらうのです。僕はアルミのコップでしたけど、縁の欠けた茶碗の女の子がいたりして、そのときはなんとも思いませんでしたけど、いまこうして思い出すと、まさに敗戦国の敗戦直後の庶民の暮らしですよねえ。

「グレープフルーツ・ジュースは、じつになんとも言えず酸っぱくてね。ほんとに酸っぱいんです。飲めない女の子なんか涙ぐんでましたよ。残しておいて、あとでそっと捨てたのではないでしょうか。あるいは、隣の席の洟を垂らした男の子が、もらって飲んだとか。先生としては、そういったことは黙認でしょう。あれはほんとに酸っぱかった。妙な薄黄色をしてましてね。ジュースという言葉じたい、まだもの珍しい時代でしたけど、これがジュースだよと言われてアルミのコップに先生から注いでもらうと、なんの抵抗もなしに、ジュースとして飲んでましたね。僕にとっては生まれて初めてのジュースでしたけど、とにかく酸っぱい酸っぱい黄色い水でした。アメリカからもらったものだと思いますけど、あんなに酸っぱいものですかねえ、グレープフルーツのジュースというものは。そしていまもって謎なのは、なぜグレープフルーツのジュースだったのか、ということです。オレンジでもパインでもいいじゃないですか。なぜグレープフルーツだったのですか」

 学校給食は一九四七年の一月から実施された。週に二、三回、そして一食につき十円を、学童たちの親が負担したという。地域によって多少の違いはあるだろう。僕は残念なことにまったく体験していない。自主選択的不登校とも言うべき子供だった僕は、給食を知らずに過ごしたほどに、学校へいかなかったからだ。なぜいかなかったのか、その理由は単純そのもの、ほかにやることがたくさんあり、学校へいく暇がなかったからだ。午前中だけいく、あるいは午後からいく、ということもしばしばあった。一九五四年には学校給食の制度は法制化された。ぜひ学校で給食を出してくださいと、全国の親たちが強く要望したからだ。

 アメリカの教育使節団という人たちが、一九四六年に、敗戦国日本へ来て子供たちの様子を視察してまわった。子供たちの体力や体格には著しい低下が見られ、おしなべて彼らは栄養失調ぎみであり、この事態を多少にせよ改善することは、日本にとって最重要な国家的な課題のひとつである、ということがわかった。戦前・戦中の日本国家は、子供たちの身の上において、こんなに惨めな失敗を平気で犯すほどに、無能だった。この使節団の報告を受けたGHQが緊急対策として指示したのが、一九四七年一月からの給食だった。使節団は一九五二年にも日本を訪れた。

 学校給食のための食料は、ユニセフの支援、そしてララ物資によって、調達された。ララとは、公認アジア救済委員会という組織の英語名を、頭文字を読んだものだ。アメリカ国内の宗教、労働、社会事業など十三の団体によって、組織されていた。このふたとおりの調達経路に、日本に駐留していた占領軍からの、放出食品が加わった。

 戦時下のアメリカでは、食事や食品、栄養、身体の機能などに関して、国民の徹底した再教育がおこなわれた。戦争に勝つためには、正しく食べて壮健な体躯を維持し、そこから生まれるあらゆるエネルギーを、戦争遂行努力に注ぎ込まなくてはいけない、というわけだ。ヴァイタミンや各種のミネラルなどに関する正しい知識が、戦争を契機および背景として、アメリカの人たちのあいだに広くいきわたった。

 ヴァイタミンの頭文字であるVは、勝利つまりヴィクトリーのVであるとして、ヴィクトリー・ヴァイタミンと呼ばれて貴重品扱いされた。もっとも自然でもっとも安価で、製造するのも楽であった柑橘類のジュースは、摂取のしかたの簡便さとあいまって、ヴィクトリー・ヴァイタミンCという、ヴィクトリー・ヴァイタミンの主役の位置についた。缶詰として生産されるオレンジやグレープフルーツなどのジュースの全量を、アメリカ軍は軍用に確保した。余剰があればそれは民間の消費へとまわされた。

 ある程度の余剰がほとんどいつもあったのは、グレープフルーツ・ジュースの缶詰だった。グレープフルーツは常に大量に収穫されていたからだ。グレープフルーツ・ジュースの缶詰は大量に生産され、大量に軍隊へ納入された。兵士たちの健康を維持するための、最重要な食料として、故国アメリカをどこへどのくらい遠く離れようとも、ヴィクトリー・ヴァイタミンCのジュースは、常に大量に届いていた。そして兵士たちはそれを大量に摂取した。戦争が終わっても大量に供給され続けるジュース類は余剰となり、なかでも余剰さが際立っていたグレープフルーツ・ジュースが、日本の学童の給食用に放出された。

底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 2005年


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2019年12月17日 11:00
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