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地球を照らす太陽光の純粋な原形

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 子供の頃から現在にいたるまで、僕はアメリカの雑誌『ナショナル・ジオグラフィック』の愛読者だ。好きな雑誌を一種類だけ選べと強制されたなら、僕は『ナショナル・ジオグラフィック』を選ぶだろう。

 もの心がついたとき、この雑誌はすでに僕の身のまわりにあった。父親が購読していたのだ。幼児から少年へと成長するにつれて、『ナショナル・ジオグラフィック』と僕との関係は深くなっていった。最新号がアメリカから届くと、飽きることなく写真を眺め記事を読んだ。当時から現在までのバック・イシューが、ほとんど欠号なしにいまでも僕のところにそろっている。

『ナショナル・ジオグラフィック』を見ていると、ぜひとも自分でいってみたくなる場所がいくつも発見出来た。いきたい場所をノートブックに書き出していたことを、いまでも僕は覚えている。地名を書き、『ナショナル・ジオグラフィック』の記事から要点を抜き書きしておくのだ。いきたい場所は数多くあり、ノートブックはすぐにいっぱいになった。

 ちょうどその頃、僕は日本語のカタカナの異国的な感触というものを発見していた。高校の終わりまで英語による教育を受けた少年にとって、どこの国のどのような町でも、英文字で書いてあるとさほど異国的な感じは受けない。見なれたアルファベットがならんでいるだけだ。ところが、おなじ地名をカタカナで書くと、雰囲気はまるでちがってくる。

 サマルカンド。ダーダネルス。イスタンブール。ブンガワンソロ。バグダッド。アレキサンドリア。ユージノサハリンスク。モザンビーク。カタカナ書きしたとたん、世界のほとんどの地名が、英文字のときとはまるで異なった独特なイメージとなって、地図の上に浮かびあがってくる。英文字で綴るとむしろ平凡になってしまう外国の地名が、カタカナになるとそのとたん、すくなくとも当時の僕にとっては、慣れた手がかりのいっさいない遠い国として、より印象強くイメージされた。

 マダガスカルも、そのような名前のひとつだ。英文字で書くと、MAD・A・GAS・CARとつい読めてしまうときもあり、そうなると面白さのよく伝わらない冗談のようでしかない。しかしカタカナで表記すると、趣はまるでちがってくる。本来あるべき姿となる。だから僕にとって、世界じゅうのいくつもの地名が、いまもってカタカナによる世界だ。

 マダガスカル。なんという異国的な字面および音であることだろう。この大きな島については、『ナショナル・ジオグラフィック』で何度か読んだ記憶がある。いきたい場所としてノートブックに書いたことも、僕は記憶している。マダガスカルに関して、少年の僕がまず最初に得た印象強烈なインフォメーションは、エピオルニスという巨鳥についてだった。

 とっくに絶滅しているこの鳥は、足もとから頭のてっぺんまで3メートルはあったという。飛べたらなんと素晴らしいだろうと僕は心から思うが、残念ながら飛べなかった。そして抽象をきわめた芸術作品のような卵を生んだ。長さ三十センチ、鶏の卵の百八十個分の容積。一個を持つのに、大人が胸にかかえなくてはいけない。この卵は、化石となって断片がよく発見される。ごくまれに、完全な形の化石も出土する。

 この巨大な鳥をイメージの土台にしたにちがいない、と子供の頃の僕が思った鳥が、『アラビアン・ナイト』に登場する。象をつかみ、苦もなく空高く舞い上がるという、シュール・リアリスティックな鳥だ。象をつかんで空高く舞い上がってどうするのか。空中で象を離す。象としては落下するほかない。

 おそらくこの巨鳥のせいだろう、少年の僕はマダガスカルに関して、この世ならざる世界を豊富にかかえこんだ、奇妙で不思議な魔法のような島、という感想を強く持った。そして、マダガスカルが僕にとってこの世ならざる魅力を持っているもうひとつの理由は、大陸の移動だ。

 ほんとに大昔、インド、アフリカ、オーストラリア、南極、そして南アメリカなど、現在ある大陸は、すべてひとつにつながった巨大な大陸だった。ひび割れたのち、移動するマントルに乗って散っていき、とりあえずいまのような位置関係に落ち着いている。その、分かれる以前の途方もなく大きな大陸の中心となっていたのが、いまのマダガスカルだ。

 子供むけの世界地理の本で古代の大陸について読んだあと、インドあるいはアフリカを中心に描いた一枚の大きな世界地図をつくづく見ていると、少年のイメージのなかでやがていまの大陸は移動してひとつにまとまり、再び分離して散っていく。科学よりも芸術の領域の出来事と言っていい古代ゴンドワナ大陸の中心は、海によってどこからもへだたれたまま、いまもアフリカ大陸の東南に、大陸から至近距離のところに残っている。

 なんの予備知識もなしにマダガスカルを地図の上で見ると、アフリカからこぼれ落ちた島のように見える。そのかぎりにおいて、さほど目にとまらない島かもしれないが、ここがじつはゴンドワナの中心だったと知ると、その瞬間から、マダガスカルは人の気持ちを引きつけてやまない不思議きわまりない魅力をたたえた島へと、みごとに変化する。本当は島ではなく、大陸なのだが。

 マダガスカルは途方もない奥行きを静かにたたえて、芸術的に不思議だ。光が素晴らしい。特にすさまじい雨のあと。世界に類を見ない動植物相がそのまま残っていることで有名なマダガスカルだが、僕としては光が残っていると言いたい。

 ゴンドワナ大陸をかつて照らしていたのとおなじ光がそこにいまもある、という言いかたは明らかに感情的だろう。しかし、地球に届く太陽の光というものの、ひとつの純粋な原形がこれだ、と言っていい光だ。地球に届く太陽の光は、場所と季節によって大差がある。その大差のすべてを最終的にひとつにまとめあげたような神々しい光が、マダガスカルを照らしている。神々しい太陽の光についてならよく知っているつもりだった僕を、マダガスカルを通過した台風のあとの光と空、そして風は、あっさりと叩きのめした。台風およびその前後の時間を体験することは、マダガスカル体験の基本だ。

 一歩も動けなくなるような、そしてひと言も口をきけなくなるような、したがってその場に立ちつくしてじっと光を見るほかないような光のなかで、たとえば動物や植物を見ることは、僕の限界を越えている。人間などまったくなんの関係もなしにスタートしたこの地球というものの、真の姿の一端を、僕はマダガスカルの動物と植物に見た。それだけで充分であり、それ以上は目がくらんでしまう。研究者にとってはうれしさで気も狂いそうな宝庫だろう。

 おなじ光のなかで、いろんな場所から島の地形を見る。この島と人間との関係の歴史は、動物を絶滅させ土地を破壊することの歴史だった事実が、ほんのすこしの勉強でもすぐにわかる。先進国的な工業化や都市化、あるいは大規模開発が目につくわけではなく、むしろそんなものとはいまだに無縁のように見える島だが、ここでも人間は最初から破壊者として機能したらしい。さきほどの巨大鳥エピオルニスが絶滅するとき、最後のとどめをさしたのは人間だった。その動かぬ証拠が、化石となって出土している。

 地球を照らす太陽の光の、純粋な原形のような光のなかで、マダガスカルに生きる人たちの顔や姿を観察する。いわゆる東南アジアの顔がある。インドも多い。アフリカもある。決定的にどれが主流ということはなく、ごく無理のない成りゆきのなかで混在しているのだろう。南回帰線が南端近くを横断するこの島へ、インド洋を横断してやって来た人たちについて思うと、その思いの糸はたやすく大昔の彼方までたぐられていく。

 ほとんどが熱帯のなかにあるこの島は、その東側で南東からの貿易風を受けとめる。島の気候は貿易風の支配下にある。乾季と雨季があり、湿った地方と乾いた地方がある。雨季が夏にあたる。十一月から四月までだ。そしてこの期間に台風が来る。台風が来る直前の、猛烈に気圧の低下していく様子、そしてそれにともなう原初的な深い静かさは、ほかでは不可能な地球体験だと僕は思う。

『アール・グレイから始まる日』角川文庫 1991年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『自分を語るアメリカ』太田出版 1995年

今日のリンク:

ナショナル・グラフィック英語版サイト「Madagascar-guide/マダガスカル・ガイド」

ナショナル・グラフィック日本版サイト「エピオルニスの巨大な卵を探して」

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(『彼らと愉快に過ごすー僕の好きな道具について』1987年、エッセイ・コレクション『自分を語るアメリカ』1995年)


1991年 1995年 『アール・グレイから始まる日』 アメリカ エッセイ・コレクション マダガスカル 少年時代 片岡義男エッセイ・コレクション『自分を語るアメリカ』 自然 雑誌 雑誌|『ナショナル・ジオグラフィック』
2015年12月2日 05:30
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