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上を向いてスキヤキ

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 イギリスのパイというレーベルのレコード会社のヘッドが、商用で一九六二年の東京を訪れた。そのときちょうど大ヒットしていた坂本九の「上を向いて歩こう」を彼は聴いてたいそう気に入り、レコードを手に入れた。そしてそれを持って帰国し、ケニー・ボールというミュージシャンに聴かせたところ、彼もその曲に強い共感を示した。だからケニー・ボールのグループによるシングル盤として、「上を向いて歩こう」のカヴァーをさっそく作ることになった。

「上を向いて歩こう」という日本語題名をそのままローマ字書きしても、イギリスの人たちにとってはなんの意味も持たない。読めないし発音もできない。タイトルをどうすればいいかをめぐって、ケニー・ボールたちがロンドンの中華料理店で食事をしながら話し合ったとき、たまたま同席していた歌手のペトゥーラ・クラークが、日本と関連して多くの人たちにすぐにわかるのはスキヤキしかないから、タイトルはぜひともスキヤキにしましょうと提案し、全員の単純な賛同を得てその提案は受け入れられた。「上を向いて歩こう」は、こうして「スキヤキ」となった。

 トランペット奏者のケニー・ボールは、ケニー・ボール・アンド・ヒズ・ジャズメンというグループを率いていた。デキシーランド・スタイルでなんでもこなす、という、バンドだ。イギリスではデキシーランド・スタイルの演奏が一九四〇年代から人気があった。クリス・バーバー。ハンフリー・リトルトン。アッカー・ビルク。モンティ・サンシャイン。こういったデキシーランド・スタイルの演奏者たちのなかで、時間的にもっともこちら側の人がケニー・ボールだ。古いロシアのメロディを借りた「モスコーの夜はふけて(ミッドナイト・イン・モスコー)」が、一九六二年の日本でヒット・パレードに登場した。

「上を向いて歩こう」という曲は、トランペットがリードするデキシーランド・スタイルの演奏にぴったりではないか。Fでひとまずは明るく進展していくのだが、それを取り囲んでいるのはすべてマイナー・コードであるという構造は、明るさにほどよく哀調の影をつける。ケニー・ボールと彼のジャズメンによる 「スキヤキ」は、一九六三年の一月にイギリスでヒットチャートの第十位に入った。

 ケニー・ボールの「スキヤキ」を僕はまだ聴いていない。彼の数多いLPのどれかに収録されているはずだから、いずれ巡り合うだろう。クライド・ビーヴァーというアメリカのカントリー歌手が、一九六三年に英語の歌詞で「スキヤキ」をレコードにしたけれど、チャートには入らなかったという。このレコードを見つけるのは難しいだろうなあ、と僕は思う。ア・テイスト・オヴ・ハニーという黒人女性のデュオが、一九八一年に英語詞の「スキヤキ」をレコードにし、これは第三位まで上昇した。ジ・アンドリュース・シスターズも「スキヤキ」を歌っている。

 僕が持っている「スキヤキ」の珍品は、イツ・ワタナベ・アンド・オーケストラによる『スキヤキ』というタイトルのLPに入っているものだ。ワタナベさんのオーケストラは、すべてをよく心得た滑らかな演奏のハワイアン・バンドだ。当時のアメリカ西海岸で活躍していたハワイアン・バンドのひとつだろう。ハワイアン曲が九曲あり、これらはよくまとまっている。そして残る一曲が、男性のヴォーカルによる「スキヤキ」だ。他の九曲に対してこの一曲だけが、たいへんに違和感のあるところがまず面白い。バックの演奏もまるで異なる。このLPを製作していく最終段階のところで、「スキヤキ」のヴォーカルを制作者たちは無理に押し込み、ついでにLPのタイトルにもしてしまったというようなところだろう。

 ヴァイキングというレーベル名以外、なにもわからないLPだ。制作年も不明だし、「スキヤキ」を歌っている歌手の名もクレディットされていない。黒人かな、という印象を僕は受けた。アメリカのおそらくは西海岸のどこかに、かつては存在したいわゆる日本庭園の太鼓橋の向かい側で、着物姿の日本女性が池のほとりの石にすわっている様子をとらえた、凡庸きわまりないカラー写真がジャケットになっている。

 このLPのなかの「スキヤキ」がなぜ珍品かというと、日本語をおそらくひと言も理解しないはずのこの男性歌手は、坂本のレコードを繰り返し聴き、一時間あるいは二時間という短い時間のなかで、日本語の歌詞ぜんたいを音として覚え込み、そのとおりに歌っているからだ。部分的にせよ僕はこの歌の歌詞を知っている。だから相当に変な日本語で歌っているのを聴いても、なにを言っているのかわかるはずだが、この歌手が歌うのを聴いているとなにひとつわからない。

 坂本の歌いかたを少しだけ真似しながら歌う彼の日本語詞は、日本語を音として覚えてそのとおりに音声としたフォネティック・ジャパニーズの、これ以上ではあり得ないほどに純粋な一例であると同時に、なにひとつ意味が伝わらないという点において、見事な落第例でもある。日本語のはずなのに、日本語として聴き取ることのできる言葉は、最初から最後までひとつもない。こういうのはなかなか珍しいのではないか。英語の歌詞を耳で覚えて懸命に歌いつつも、英語としてはなにを言っているのか不明であるという例が、かつて日本のポピュラー歌手にもしばしばあった。そのちょうど逆版だと思えばいい。

底本:『ピーナツ・バターで始める朝』東京書籍 2009年

今日のリンク:

(1) 坂本九「上を向いて歩こう」KYU SAKAMOTO  SUKIYAKISukiyaki (Ue o Muite Arukou) – Kyu Sakamoto (English Translation and Lyrics)
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(2) ケニー・ボール・アンド・ヒズ・ジャズメン「スキヤキ」
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2016年6月15日 05:30
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