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物価とはなにか

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 物価が総体的に下がっている、という説は疑ってみる必要がある。なにかの統計にあらわれた数字だけを見ているとそう思える、というだけのことではないか。単体として価格が下がったものは確かにある。中国、東南アジア、南アメリカ、東ヨーロッパなどが、市場へ急激に参加したことによって、多くの製品の価格は低下した。どこか他の国で高いところまで到達した技術を使い、安い労働力で生産するからだ。

 技術の飛躍的な革新により、性能が向上したり多機能になっても価格がさほど変わらなければ、価格は相対的に低下する。コストの削減や流通の簡素化、あるいは自分でも納得の出来るものを可能なかぎり安く提供したいという、社会的な誠意が機能して価格が下がる場合など、背景にある理由はさまざまだ。

 商品が商品たるもっとも端的なゆえんは、どの商品にも値段がついているという事実だ。いまの日本を広く覆っている低価格という現象は、どの商品にもその質に見合った値段がついているという単純明快な現象、つまりさほど良くないもの、つまらないもの、美しくも楽しくもないもの、どうでもいいものなどが広く多く出まわり、そのようなものはおしなべて低価格である、という現象にすぎない。

 ずっと以前の時代の、安かろう悪かろうの粗悪品とは、意味あいが異なる。どの製品もそれなりであり、そのかぎりにおいては、生産者や販売者に非はないのだが、本当にいいものではなく、価格と釣り合った間に合わせのものであるところが、新たな問題だ。本当にいいものとはどんなものか、人生の最初から知らないままに来て、したがって本当にいいものを見ても理解出来ないから、本当にいいものが持っている妥当な値段に対して、高い、と人々は言ってしまう。高い、というひと言を反射的に発することによって、本当にいいものを理解することの出来ない自分の次元で、本当にいいものを拒否し排除する。こういう人たちが大衆という多数派となっているから、彼らが発揮するこのようなマイナスの方向への力で導き出されるようにして、価格の低いものが多く出回ることとなった。

 彼らが経済的に弱者の側へと傾斜しつつある事実も、こうした低価格製品の多さを促進している。高い、というひと言によって、本当にいいもの、つまり値段の高いものの存在を彼らは認めず、そのようなものを否定しようとしていく。値段の高いものの存在は、世のなかには経済力の格差が如実にある事実を、端的に示している。と同時に、質の高いものの存在も、明確にしている。質における格差がそこにあり、ものの質における格差とは、最終的には、人のあいだにあって当然の、能力の差でもある。

 本当にいいものにつけてある、彼らの目には高く見える値段を認めてしまうと、生まれや育ちのなかにある格差をどうするか、といった問題までさかのぼって到達してしまう。したがって経済格差はもちろん、質や能力の格差までいっさいなくなったかに見える、結果の平等という疑似的なユートピア、それが買うものはすべて低価格という大衆の世界だ。彼らの日常生活の全領域で、良くないものが低価格で出まわる。だからすべてをそれで間に合わせる日々を、彼らは送る。良くないものが持つ最大の欠点は、それを買って使う人をなんら高めないという、じつは見えにくい事実だ。人々は高まっていかない。大挙して落ちていくだけとなる。しばしば指摘されている日本社会の劣化とは、このことだ。これがこのまま続くなら、劣化はさらに進行していく。低迷の底で安くて良くないもので間に合わせる日々は、長期停滞を呼び寄せてそれを常態へと定着させるだろう。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年


2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 戦後 日本
2016年1月23日 05:30
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