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サンフランシスコ湾ブルース

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 フィービ・スノウのLP『フィービ・スノウ』を、AB両面、聞きおえたばかりだ。

 音の印象は、かなり素敵だと言える。ほんのわずかに、しかしはっきりと、ブルーに内向していく雰囲気をたたえつつ、ぜんたいはすっきりとメランコリックだ。

 おさえのきいたシンプルな、余裕のあるリズムが、ひどく都会的に洗練されている。

 クールに、軽く、べとつかず、さわやかにはずんでいく。ジャズとニグロ・ブルースとフォークをかさねあわせ、フィービ独特のとしか言いようのない、趣味のいい知的なブルースが、A面からB面の終わりまで心地よい緊張を保って、ぴっしりとはりつめている。小さくふるえる裏声に託された感情は、歌詞の英語がひとこともわからなくても、伝わってくるような気がする。

 フィービ自身のアクースティック・ギターが、みごとだ。テディ・ウィルスン、ズート・シムズ、チャック・イズラエル他、サポートがまた素晴らしい。こんなふうに両面ともきっちりと完成されたデビューLPは、珍しい。ほんとうに、いい音だ。

 このLPには、9曲の歌がおさめられている。2曲をのぞいて、すべてフィービ・スノウの作詞・作曲だ。アクースティック・ギタリストとして、ヴォーカリストとして、すぐれた才能を持つと同時に、ソングライター、詩人としても、たいへんな技量の持ち主だ。

 フィービの、詩の世界をのぞいてみよう。まだ22歳だという。年齢のわりに、詩の世界はすこしふけている感じがしなくもないが、ほぼ自作自演のデビュー・アルバムらしく、自分自身の心象世界を、過不足なくきれいにうたいきっている。トータル・アルバムのつもりで、はじめから終わりまで聞き通すと、このLP全体をやさしくつらぬいて支えているフィービの心象世界のテーマのようなものが、はっきりとわかってくる。国内盤を買うとまちがいは多いけれど英語の歌詞がそえられている。歌詞を目でたどりながらフィービの歌を聞いていくと、このアルバムに盛りこまれた世界が、きれいにわかってくるはずだ。

 フィービの詩の世界は、このLP『フィービ・スノウ』の音の印象と、もののみごとに、ぴったりとかさなっている。音の印象に関してたったいまぼくがつらねたいくつかの言葉が、そっくりそのまま、このLPのなかのフィービの自作曲の詩にも、あてはまる。

 明らかにブルーで、はっきりとメランコリックなのだが、すっきりとさわやかだ。つまり、自分および自分をとりまいているすべての状況に対する、微妙に屈折した肯定的な思いが、ぜんたいにわたって感知されるしかけになっている。

 微妙に屈折しながらも肯定的だから、フィービの詩はいろんなふうに解釈でき、いろんな思いをこちらがわから託することができる。へたをすればもうちょっとで深刻になったり気分のふさいでいく詩になったりするのだが、しなやかな感性がそのしなやかさと同時にあわせ持つ強靭さによって、そのようなつまらないことをフィービはあっさりと回避している。

 このLPのなかでフィービ・スノウが見せてくれている詩世界の、もっとも重要なテーマは、進行していく時間と自分の状態との関係なのだ。

 時間は、ほうっておいても勝手に進行していく。時は、ひとりでに、たっていくのだ。そして、自分というものは、ひとりで勝手に進行していく時間と無縁ではない。無縁ではないどころか、自分は進行していく時間のなかでしか存在しえない。

 時間のほうは、どんどん、あるいは時としてゆっくり、進行していってしまうのに、進行する時間のなかにいる自分の状態はすこしも変わらない。

 いくら時間が経過しても、自分の求めているものは手に入らない。あるいは、時間の進行と共に、自分の手のなかからなにかが失われていく。

 いつまでたっても、自分の求めているものが手に入らない状態、あるいは、なにかがいつのまにか自分から失われてしまう状態が、進行していく時間のなかで、何度も何度も、くりかえされていく。

 いつまでたっても、すこしも変わらない自分を、そして求めているものが手に入らない自分、なにかと次第に失っていきつつある自分を、進行していく時間のなかでくりかえし発見する。

 この、変わらない自分をめぐってくりかえされる時間の進行に対する、都会的に洗練されたメランコリックな違和感、これが、このLP『フィービ・スノウ』(日本盤題名『サンフランシスコ・ベイ・ブルース ブルースの妖精』日本フォノグラムRJ-6021)の、心象上のテーマなのだ。

 とてもわかりやすい、すんなりとしたテーマだ。都会のなかで生活している人たちなら、たいていが、このような違和感を自分の心象として持っているのではないだろうか。

 自分はなにかを求めているのだが、それが得られないままの自分が、時間のつらなりのなかで、つづいていく。さっぱり変わっていかない自分をめぐって、時間は円環を描いてくりかえしていくだけなのではないのか。時間の進行と自分の状態とに関する、このような違和感が、A面とB面をとおして、さりげなくうたわれている。

 自分がなにを求めているのか、あるいは、自分がどのような自分になっていきたいのか、という点に関しては、フィービはまったく触れていない。力点は、あくまでも時間と自分自身に対する違和感に置かれているから、知的に洗練されたメランコリーが、さらにいっそう強調されてくる。

フィービ・スノウの詩の世界に、具体的に触れてみよう。A面の最初から、聞きとおしていきたい。そして、曲のひとつひとつについて、ぼくの感じ方を書きとめてみよう。最初の歌『グッド・タイムズ』。これはフィービの自作曲ではないけれど、LPぜんたいにかかわるステートメントのような存在になっている。

  いまは午前1時かもしれない
  午前の3時かもしれない
  そんなことどうだっていい
  私にとって時間はなんの意味もない
  もうずいぶんながいあいだ
  スイングしなかったから
  いま私は気分をたかめている
  こういう気持にはもう二度と
  ならないだろうから

 自分にとってのとてもいい時間、つまり違和感を感じなくてもすむ時間は、夜の時間なのだ。夜のなかで、「時間なんてどうだっていい」と言いきってしまって気分をたかめていけば、時間は進行をとめてしまう。あるいは、実際にはとまらなくとも、一時的にとまってしまったような錯覚を自分のものにすることができる。

「オール・ナイト」(夜どおしずっと)というみじかい言葉が、時間の進行をストップさせる呪文のように、ブルーにくりかえされる。

 時間と自分との関係という重要なテーマに加えて、LPぜんたいにおよぶ決定的な色どりとして、「夜」というものが、A面の最初にあるこの歌で、提示されている。「夜」は、時間がとまってしまう魔法の時なのだ。

『ハーポのブルース』では、「自分」というものに対する自分自身からの願望が、ぽつんとひとつ、簡素にさらりと、うたわれている。

 冒頭に、次のような文句がある。

  私は柳の木だったらいいのに
  そしたら風のなかの音楽にあわせて
  ゆらいでいることができるのに

 いまの自分とはまったくちがった自分になりたい、という変身願望ではないのだろう。いまの自分の状態が、自分にとってなんとなくしっくりこない。その、しっくりこないという気持ちを、フィービは、「柳の木だったらいいのに」とうたったりする。

 そして、そんなふうにうたいおえたと同時に、フィービ自身はひらりと身をかわし、ちがうところへいってしまい、
「山だったらいいのに」
「ソフトなリフレインだったらいいのに」
などと、うたう。

 自分の状態を変えたいのではなく、進行していく時間の質を変えたいのだ。生硬な表現だけれども、生身としてのフィービの心象をぼくが文字で紙のうえにピンでとめようとすると、こんなふうにしかならない。『ポエトリー・マン』は、ヒットした曲だ。FM局のベスト20だかのなかに、ながいあいだ高位を保っていた。

 ポエトリー・マン(詩人)とは、この歌のなかでは、進行していく時間そのものの擬人化だとぼくは感じとっている。進行していく時間、と言うよりも、去っていく時間、なのだ。

 どこからか自分の目の前までやってきて、自分に触れたような触れないような感じを残しつつ、どこかへ去っていってしまう時間。

  さようならと言う時が
  また来てしまったのね

 去っていく時間、つまりポエトリー・マンヘの、さようならだ。

 YOU(あなた)という二人称でフィービが呼びかけているポエトリー・マンとフィービ自身とのあいだのやりとりがこの歌の中心になっている。そして、そのなかを、時間が進行して去り、さようならを言うときには、あとにとりのこされた自分をとりまくスペースが広がっている。この歌を聞く人は、自らをそのスペースのなかに身を置くことになる。

 A面の4番目『どちらか、あるいは両方』と、5番目の『サンフランシスコ湾ブルース』は、これから自分のほうへやってくる時間に対する期待が、それぞれちがったかたちでうたわれている。

 具体的な期待ではないけれど、はっきりと自分のほうから時間というものに対してうち出されている期待なのだ。

  時としてこの人生は
  とてもうつろになってしまうので
  私はこわくなる
  だけどあなたもこの人生のなかで
  いっしょなのだなと思うと
  私もまだこれからだなと
  そんな気がしてくる

 このなかでの「あなた」は、進行する時間とそのなかにいる自分とに対する期待のことだ。きっとなにかがあるはずだという、虫のいい淡い期待ではなく、時間と自分との関係の美しさや、しっくりとつながったありさまに対する期待だ。

『サンフランシスコ湾ブルース』では、最後の部分でこのおなじ期待が、うたわれている。

  彼女がもし私のところへ帰ってくるようなことがあれば
  まったく新しい日がそこからはじまります
  彼女といっしょにサンフランシスコ湾のほとりを歩くのです

 失恋というような具体的なことをフィービはこの歌に託しているのではなく、めぐりくる時間と自分との調和への期待という心象的なことがらをうたっている。

 B面のはじめの歌、『夜が終わってほしくない』は、このLPのなかでのいちばんの傑作だ。タイトルどおり、「夜」のなかで時間の進行をとめようとするところから、都会的に洗練されたメランコリックなものが、決定的な雰囲気として、たちのぼってくる。「夜」のなかで自分がとめようとはかる時間とのラヴ・アフェア(恋愛ざた)みたいなものが、この歌なのだ。

  都会の汚れた霧が
  深く入りこみすぎ
  おかげで私は
  いやな気分
  いまの私の問題は
  あなたがいないということ
  暗くて甘い夢であなたに会い
  私はおぼれよう

  私とあなたは
  いったいどうなるのだろう
  夜が終わってほしくない

 時間と自分に関する、さまざまに錯綜した気持ちが、なんの作為もごまかしもなく、巧みに描き出されている。「夜が終わってほしくない」という文句と「チャーリー・パーカーが死んだと言ってたわ」という文句が、進行していく時間のなかに自分をつなぎとめるための、重みのあるピンになっている。過ぎていく時間に自分を自分でピンどめするとき、そこに甘く暗い虚構としての「夜」が生まれる。22歳のフィービ・スノウの、感受性の世界における全存在がこの歌にかけられているようにぼくは思う。

 その次の、『子供たちを家につれて帰りなさい』は、A面の『ハーポのブルース』に似ている。
  
  あの手品師の眼のなかに入りこみ
  彼のあの眼の位置から
  うたったり泣いたりしてみたい

 自分がいまの自分とはまるでちがった、なにかほかのものになりたいというのではなく、時間そのものを自分の手で操作してみたい、という思いが、「手品師の眼のなかに入りこみたい」と表現されて、フィービの内部から外へ出てくる。

『今日は日曜のはず』では、進行していく時間に対する自分の側からのとまどいが、適確に描かれている。「電話ボックスのなかから、世界が自分をとりまいているのを見ている私」が、「今日は日曜のはずなのだが月曜かもしれない」と、時間の進行に対してごく軽い錯乱をおこし12月31日につづいてやってくる1月1日に対するとまどいを、進行する時間ぜんたいに対するとまどいとして、みごとに描ききっている。12月31日に関するくだりから最後まで、とてもよくできているから訳さずにおこう。

 最後の歌『今日はショーはありません』では、音楽がうまくいかず自分の演技も納得できないため、心のなかで「ノー・ショー・トゥナイト」と言っているステージ芸人に自らをなぞらえ、その芸人が楽屋の化粧室で「座礁」している姿をとおして、進行していく時間のなかでやはり座礁している自分の心象を描き出し、LPぜんたいをすっきりとしめくくっている。

 メランコリックだけれども気分のダウンすることのない素敵なLPを、フィービ・スノウはつくってくれた。

(『スターダスト・ハイウエイ』1978年所収)


1978年 『スターダスト・ハイウエイ』 アメリカ 人名|フィービ・スノウ 聴く 音楽 LP|『フィービ・スノウ』
2015年12月20日 05:30
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