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昔のカレッジ・ボーイたちは、昔ふうの顔をして昔ふうのことを楽しんでいた、というお話。

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 一九五〇年代アメリカの大学生たちのあいだに大流行した、パンティ・レイドを知っているだろうか。知らなくてもいっこうにかまわないのだが。

 パンティ・レイド。つまり、パンティかっぱらい大会。パンティ泥棒みたいに、ひとりでこっそりと陰湿にやるのではなく、男の学生たちが大挙してソロリティやドーミトリーに押しかけ、女子学生の下着をかっぱらってくるという、まあ一種の遊びだ。

 一九五〇年代に大流行したこのパンティ・レイドは、一九六〇年代のはじめまでつづいたが、激動の六〇年代がスタートすると同時にばったりとなくなり、現在にいたるまで復活のきざしはない。なにしろポルノやフリー・セックス以前の出来事なので、あまりたしかな記録はないが、本格的なパンティ・レイドが最初におこったのは、一九五二年の春のことだった。

 このときは、ミズーリ大学の男子学生たちじつに二〇〇〇名が、自分たちのキャンパスの近くにある女子大や女子大寮を襲い、大量の下着をかっぱらった。暴動のような大さわぎになり、最後には州兵が出動しなければならなかった。

 明くる日、この二〇〇〇名の学生たちは、バスケットボールのコートで大集会を開き、かっぱらった下着の返却大会をおこなった。昨夜の収穫品である下着をショッピング・バッグにつめこんで男子学生たちがぞろぞろと集まり、優勝旗返納と中古下着のガレージ・セールをいっしょにしたような式典をおこなった。

 このミズーリ大学での暴動のようなパンティ・レイドは、全米に飛び火していった。テネシー大学、ジョージア大学、ペンシルヴェニア大学、インディアナ大学と、どこでもみな暴動クラスの大さわぎのうちに、パンティ・レイドがおこなわれた。

 キンゼイ・レポートで世界的に有名になったアルフレッド・キンゼイ博士が当時はインディアナに住んでいた。このパンティ・レイドの大流行に関して、彼は新聞社からコメントを求められたことがある。「自分の専門的な研究領域以外のことなので、よくわかりません」と、キンゼイ博士はこたえたそうだ。

 パンティ・レイドが最大のスケールでおこなわれたのは、一九六〇年代に学生運動の中心地となった、カリフォルニア大学のバークレー・キャンパスだった。

 一九五六年五月、満月の夜。パンティ・レイドは満月の夜におこなう、というルールが、このころになるとすでにできていた。三〇〇〇名以上の男子学生たちが二二軒のソロリティやドーミトリーを襲撃してまわり、女子学生たちの下着を略奪した。怪我人がたくさん出たし、建物や器物が破壊され、この被害は一万ドルにのぼった。洗たく室に干してあるのやドレッサーの引出しにしまってあるのをかっぱらってくるだけではなく、数人がかりで女子学生を押えこみ、着用中の下着をまるでレイプのようにはがしてくることも、UCLAバークレーではおこなわれた。バークレーのキャンパスで学生たちが発行している日刊新聞『カリフォルニアン』はこの史上最大のパンティ・レイドをでかでかと報道し、「めっぽう面白かった」と書いた。

 どこの大学のパンティ・レイドでもほぼ共通していたのは、襲われるほうの女子学生たちがとてもよろこんだ、ということだ。ドーミトリーの窓やテラスに鈴なりとなった彼女たちは、押しかけてきている男子学生たちに大声をあげてけしかけ、色とりどりの下着を旗のようにふりまわし、エサまきのように二階の窓から投げあたえたりした。襲うほうも襲われるほうも、たわいない遊びという自覚は充分にあったのだろう。女子寮の寮長が古いパンティをいっぱい集めて男子学生たちにまえもって配布して暴動さわぎを避けたり、パンティ・レイドに参加した学生には徴兵登録カードを提出させて徴兵令状が届くようしかるべき手続きをする、とおどかす大学もあった。

 このパンティ・レイドにつづいて、一九三九年に気ちがいじみた大流行をした、生きた金魚の丸ごと呑みが、カレッジ・キャンパスでいっせいにリヴァイヴァルした。

 そして、これにつづいておこった流行が、電話ボックスぎゅう詰め大会だった。ひとつの電話ボックスに何人の大学生を詰めこむことができるかを競うものだ。流行の震源地は、南アフリカのダーバンだった。電話ボックスに二五名の大学生を詰めこむことができた、というニュースがロンドン経由でアメリカに届き、まず最初にカリフォルニアで燃えあがった。

 さまざまな記録がつくられ、全米各地で、電話ボックスに詰めこまれたクルーカットの大学生たちの写真が、毎日のように新聞にのった。ミズーリ・ステート・カレッジでつくられた三五人の詰めこみ記録が最高とされているが、写真を見るとかなり外にこぼれ出ている。

 電話ボックス詰めこみ競争には、ひとつだけルールがあった。できるだけたくさんの学生を詰めこんでなお、なかにいる学生たちのうちのひとりが、そのボックスの電話でどこか外へ電話をかけなくてはいけない、というルールだ。

 長距離電話マラソンというのも、流行した。片方は男子学生、そしてもういっぽうは、女子学生。どちらかがいずれかに長距離電話をかける。話す人は順番に交代してもいいが、男と女というルールは守って、どのくらい長く電話をつないだままでいることができるかを競うものだった。これの最高記録は一九六一年に、カラマズーにあるウェスタン・ミシガン・ユニバーシティでつくられた、一二四時間というレコードだ。

 アイスキューブのキャッチボール、というのもあった。三インチ立方の四角いアイスキューブを冷蔵庫でつくり、これをふたりでキャッチボールの球がわりに投げ合う。

 落としたらもちろんそこでアウトだが、落とさずにキャッチボールをつづけていき、アイスキューブが解けてなくなってしまうまでにいったい何回、投げ合うことができるか、その回数を競う。おはじきのように小さく解けてくると、もう投げ合うことは不可能だ。おたがいにむき合い、手から手へ渡しあう。このへんがおかしい。この、アイスキューブ・キャッチの最高記録は、残念ながら残されていない。

 最後に大流行したのは、霊柩車のなかに何人の大学生が入れるか、という競争だった。これも全米的なスケールで流行し、いろんな写真が残っている。

 一九五五年にコロラド・ステートの学生たちがやってみせたときの写真を見ると、一〇名の学生たちが共同で購入したという中古の霊枢車に、学生たちがぎっちり詰まっている。五〇人ちょうどだったという。車体の下に、何箇所も、レンガをしっかりとかませたうえでやっている。当時のカレッジ・ボーイたちも、すこしは利口だったのだ。

 一九五〇年代のアメリカで大学生たちのあいだに流行した、以上のような馬鹿さわぎがすべてぴたりとおさまると同時に、六〇年代の激動と変革、そして意識の洗い流しの時代がはじまっていった。六〇年代以前の、古い人種が、パンティ・レイドや電話ボックス詰めこみ競争などに、たわいなく狂ったのだろう。幸せと言えばたしかに幸せだった。

 だが、当時の写真をあらためてながめなおしてみると、学生たちの顔つきや雰囲気が、六〇年代以降、そして現在とは、まるでちがっている。いかにも昔の人たちだ、という気がする。現在の人たちも、何年かあとには、こうなるのだろうか。

底本:『5Bの鉛筆で書いた』角川文庫 1985年


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2016年4月8日 05:30
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