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太平洋の海底地図を見ながら

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 朝のうちは、薄曇りだった。午後二時をすぎて、空をおおっている雲の色が、いちだんと濃くなってきた。

 いまか、いまかと、ぼくは空をあおいでいた。空をいちめんにおおっている濃い灰色の雲のさらに下を、ちぎれ雲が風に乗って走っていった。

 風が強くなってきた。空気のなかに、雨の香りが充満してきた。そして、待っていたぼくの期待は、かなえられた。風にあおられて、さあっと雨が来たのだ。

 緑の樹が風にざわめき、そのうえに雨が降った。樹々の枝の、無数に近い葉が、雨に濡れていった。

 雨が降りはじめる瞬間が、ぼくは大好きだ。安定して雨が降りつづいているときも好きだし、抜けきった晴天も素敵だが、雨が降りはじめる瞬間には、神秘的な太古の匂いがよみがえるような雰囲気があり、なんとも言えずにいい。ぼうぜんとなって、降りはじめた雨を見てしまう。

 雨を見つづけながら、ぼくはいろんなことを感じ、いろんなことを思う。そして、最終的には、たとえば今日のように、太平洋について考えたりする。ぼくにとって、降る雨は太平洋とつながっているからだ。

 この地球を、巨大なる外側から客観的にながめた場合、ちかくにある多くの星たちとくらべてきわだって地球的な特徽は、地球という星が水の星であるということだ。水の星、つまり地表を大きな海がおおっているという事実だ。このことについては、いつだったかすでに書いたような気がする。

 水の星は、雨によってできた。ずっと昔、ほんとにずっと昔、雨がえんえんと降りつづいた時期というものを、地球の歴史は持っている。雨が降りつづいて、海ができた。降りはじめた雨を、見たり感じたりしているとなぜだか落ち着いた気持になってくるのは、すさまじく巨大な時間的な空間をへだててなお、雨は地球の海とつながっているからにちがいない。

 ぼくの部屋の、すぐ外の廊下の壁に、一枚の地図が、フレームにおさまって飾ってある。太平洋の海底地図だ。アメリカの雑誌『ナショナル・ジオグラフィック・マガジン』の発行母体であるナショナル・ジオグラフィック・ソサエティがつくったもので、素晴らしく美しい。

 左の上部にアジア大陸の一部が見え、画面のてっぺんにはベーリング海がある。画面の右側は、上から下まで、北アメリカおよび南アメリカ両大陸だ。そして、太平洋の全域が、海水がすべてなくなり海底があらわになった状態として、立体的に描き出してある。

 海底のブルーと大陸のベージュとが、きれいな色彩の対比をつくりだしている。地図というよりも、正確には、絵画にちかい。太平洋の海底はおよそこんなふうなのですよと、きわめて印象的にうったえかけるような描き方がしてあるからだ。ホリゾンタル・スケールは赤道の部分で一インチにつき五百九十五マイルという縮尺だが、ヴァーティカルなスケールは、太平洋の海底を曲面世界として印象づけるための絵画的な誇張が、ほどこされている。

 この地図を、これまでに何度も、ぼくは見ている、何度くりかえし見ても飽きない。印象的に美しく描かれた地図だからということもあるのだが、海水のなくなった太平洋の海底をこんなふうに一望のもとに見渡すことは現実には不可能だからこそ、この地図は、ながめるぼくを飽きさせないのだ。

 太平洋という海が持っているさまざまな現実を、自分で身をもつて体験するのはもちろん素晴らしいことだが、たまには絵を見るのも悪くない。雨が降りはじめた午後のひとときくらい、太平洋の海底地図というファンタジーのお相手をしてみよう。

 いろんなかたちのお相手ができるみたいだ。あちこちこまかく目をとめては、海底というものはすごいものだなあ、と思ってみるだけでも楽しい。アリューシャン・アイランズのすぐ南側に、列島にそって、さっくりと、そして深々と、リューシャン・トレンチがきざみこまれている。ジャパン・トレンチからイズ・トレンチをへて、ヤップ・トレンチまで、幾重にもかさなりあってはつづいていく深いトレンチも、すごいものだ。

 島が、いっぱいある。これだけたくさんの島があれば、たとえば古代の南太平洋で民族の大移動がおこなわれたときなど、人々は太平洋を広いとは思わなかったのではないだろうか。

 忙しくせっかちに、時間を小さくきざんでいく生活の底に沈んでいる現代人から見ると、小さな島がぽつんぽつんとしかない太平洋は、絶望的に広い、おそろしい場所に思えるだろうけれど、古代人はまったく別なとらえかたをしていたにちがいないと、太平洋の海底地図がぼくに確信を持たせてくれる。

 海底からの高さが、マイナスのついた数字で標示してある島が、いくつも見える。シーマウント、つまり海の山だ。海面上に顔を出していない、悲しいような神々しいような、不思議な山だ。ハワイアン・アイランズのすぐ近くにミュージシャン・シーマンウンツという海底の山々がある。なぜこんな名前がついたのか、その由来をぼくは知らないが、たとえばメンドシーノ・フラクチャー・ゾーンというような名前とともに、ぼくの関心をひき心を乱してよこすメンドシーノ・フラクチャーゾーンというやつは、この海底地図で見るかぎりにおいては、アメリカの太平洋岸にむかって太平洋の海底きざまれている、きれつ地帯のことのようだ。

 北アメリカ大陸の太平洋岸を、アラスカから南にむかって、静かに視線を南下させていく。大陸と巨大な海との接点は、やはりものすごい。なつかしい場所が、たくさんある。そのいろんな場所で、かつてぼくが見た太平洋が、降りしきる外の雨に、次々によみがえる。

 カリフォルニアの南端、サンディエーゴの近くまで視線がくだってきたとき、ぼくは、なぜだか、鯨を思い出した。サンディエーゴの近くの崖のうえに立って、ぼくはかつて、太平洋を泳ぐ鯨を、双眼鏡で見たことがある。

 南カリフォルニアのこのあたりは、鯨のとおり道なのだ。もっと南の、どのへんの海だったか忘れたが、ベーリング海からその南の海にむけて、鯨は泳いでいく。南の海で赤ちゃんを産むためだという。

 したがって一年じゅういつでもというわけにはいかなくて、季節的に限定されるのだが、大陸のすぐ近くをとおる本物の鯨を、その気になれば、誰でも見ることができる。

 太平洋を泳いでいく鯨は、なんとも言えず素晴らしいものだった。崖のうえから双眼鏡で見ているぼくなんかとはこれっぽっちも関係ないところが、まず第一に素晴らしい。黒々と艶やかで、あくまでも水に濡れていて、太平洋にふさわしい堂々たる量感をたたえていた。

 時速五ノットくらいで、ゆうぜんと泳いでいくから、ぼくはこの鯨にきめたという感じで狙いをつけた特定の一頭を、ゆうに一時間は見守っていられる。

 鯨の頭の部分もすごいものだが、尾ひれのあたりもすごいとしか言いようがない。

 鯨は、一定の時間的間隔を置いて海にもぐる。そして、海面に浮上してくると、後頭部みたいなところから潮を吹きあげる。

 海底地図の一角の、描かれてはいない海のなかに、あのときの鯨を、想像で泳がせる。あのときサンディエーゴ沖の海を堂々と泳いでいた鯨の腹の下はるか深くには、こんな海底があったのかと思うと、すこしも寒くはない五月の雨の日の午後だが、鳥肌が立ってくる。官能の鳥肌、とぼくが個人的に呼んでいる、あの鳥肌だ。

 太平洋海底地図に描かれた日本列島だけを見ていても、時間は快適に、官能的に、経過していく。

 さきに書いたように、ぼくに見えているアイランズ・オヴ・ジャパンは、雨の島だ。いまは雨の日の午後だから、日本の小さな島々に想像の雨を降らすには、とても都合がいい。いま、日本の島に、雨が降っている。雨は川になって流れ、川口に注ぎ、海へ出ていく。海、空、雨、島と、円環になってつながっている生態系のなかに、ささやかながら、ぼくがいたりあなたがいたりする。降りつづけている雨はぼくのすぐそばを経過し、太平洋に帰っていく。雨の日の午後に太平洋の海底地図をながめるのは非常に気持のいいことなのだと納得して、ぼくは、フレームの内部におさまった海底地図のまえをはなれようとする。

 サンディエーゴ沖の、あの鯨を、また思い出す。

 あのときは、陸から双眼鏡で見ただけだった。鯨見物のための小さな船をチャーターすれば、太平洋を泳いでいく鯨を、すぐ近くに見ることができるという。こんどは、そうしよう。太平洋のうえに出て鯨を見るだけのために、サンディエーゴへいこう。

 雨の日の午後の、ささやかな決意だ。

底本:『コーヒーもう一杯』角川文庫 1980年

今日のリンク:「ナショナル・ジオグラフィック」の地図のページ。今年101年目を迎えます。
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1980年 5月 『コーヒーもう一杯』 『ナショナル・ジオグラフィック』 サンディエーゴ 地図 太平洋 自然
2016年6月20日 05:30
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