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日本語は室内用の私的な言葉だ。男と女のとりとめのない会話から始まる、思いがけないこと

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 日本語は基本的には室内語だと僕は思っている。そして、現実の生活にぴったりと貼りついた具体的な場のひとつひとつのなかで、そのつど成立していく言語だ。具体的な場というものから解き放たれた上で、多少とも抽象的なところで成立していく言語ではないようだ。室内あるいはそれに準じるような私的な場で、日本語によるコミュニケーションはもっとも力を発揮する。

 室内の言葉であると同時に、日本語は私的な言葉でもある。私的な領域で私的に、あるいは主観的に用いられるとき、日本語は独特な強さを見せてくれる。相手の存在しない、あるいは相手というものを想定していない、室内における独白やつぶやきなどは、日本語の性能によく適合している。室内で相手なしになされる心情の吐露や心象の描出は、たとえば日本語による小説の原形ではないだろうか。日本語の性能になんの無理もなく沿った言葉の使いかただから、そのようなものを僕も試みに書いてみようかと、誘惑にかられることがなくもない。

  相手が存在している場合の私的な室内言語の典型は、室内においてどちらかと言えば秘やかに交わされる、ひと組の男女のあいだの会話だろう。ひと組の男女間に交わされるとりとめのない会話は、じつはたいへんに重要なことへの出発点となり得る。
ひと組の男女がとりとめなく話を交わす場所は、室内であろうとなかろうと、室内的な性質をおびる。 すくなくともその男女にとっては、自分たちだけのほどよくせまい空間が、その会話によって自分たちのまわりに生まれてくる。だからそのような会話は、日本語という言葉の性能によく合致している。

 とりとめのない会話は、目的を持っていない。なにかを達成するためのものではないし、なにごとかを証明したり為したりするためのものでもない。これといって特別の用はない、無駄なものだ。しかし、言葉を使った遊びと呼んでもいい空なる会話のやりとりは、そのひと組の男女にとって、きわめて重要だ。

 目的も用もなく、したがって無駄だと言われてしまうような言葉のやりとりによる遊びは、その当事者である男と女とを、社会的なしがらみに満ちた日常の生活現場から、ほんのしばらくにせよ、解放してくれないだろうか。日本語にとって重要な必須条件である、具体的な場というものから自由になった上で、おたがいに単なる男あるいは女として、言葉を交わし、重ねていくことが出来るのではないか。

 そのようなとき、彼らは、対等になっている自分たちを発見しないだろうか。社会のしがらみのまっただなかで、具体的な場のひとつひとつを追いかけることにかまけていると、男と女はなかなか対等になれない。場というものが作り出さざるを得ない上下の関係のなかに、彼らは常にとりこまれていくからだ。

 ひと組の男女を現実から解放し、ふと対等にしてしまうらちもない会話は、この意味でじつはたいへんに文化的なものだと言っていい。現実から人を解放し、対等にしてしまうだけでも充分に文化的だが、それにとどまらず、思いがけないことへの発端にもなり得るのではないかと、僕は思う。たとえばふたりの男女のあいだでの、真の対話へのきっかけになる可能性があるのではないだろうか。

 恋愛は、真の対話というもののひとつの典型としてとらえるといいのではないか、と僕は思う。とりとめのない会話は、やがて、きちんとした言葉の積み重ねによって、なにかポジティヴなことをふたりが共同して作り出していく作業に、つながり得る。

 彼の見る夢と彼女が追う夢とのあいだには、くいちがいや対立があるはずだ。あって当然だ。その当然のくいちがいや対立に、対等なふたりがおたがいにどのように対処していくかが、たとえば恋愛という真の対話の関係だ。おたがいが追いかけている夢という立方体の形のちがいを照らし合わせる行為の、持続するぜんたいが、恋愛だ。だから恋愛は言葉でおこなわれる。恋愛だけではなく、人間がおこなうことのすべては、言葉がとりしきっている。

 恋愛は、とりとめのない会話から出発して、やがて到達する真の対話の関係だ。真の対話は、現状というものを改良していく力を持つ。まともな言葉の蓄積をとおして、新しい事実が生まれてくる。本当の恋愛とは、そのようなものだ。とりとめのない会話、つまりこまやかな感情的あるいは心理的ニュアンスの差の伝え合いから、本当の恋愛がじつははじまっている。恋愛は、言葉による高度に知的な、創造の行為だ。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 一九九六年


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2015年10月19日 14:31
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