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父のシャツ

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 幼年期を終って少年期へ入っていこうとしていたころのぼくにとって、いつも身近にありながら解明不可能な謎をいくつもはらんで常に魅力的であったもののひとつに、父親の着ていたシャツというものがある。なかでも仕事のときに身につけるビジネス・シャツは、魅力的な謎をたくさん持っていた。

 スーツの上衣を脱いでシャツ姿になると、父親の印象はそれだけで一変した。と言うよりちきちんとタイをつけてスーツを着ていると大人の男の印象が、シャツ姿になるとさらにいちだんと強調された。

 シャツ姿のとき、胸もとや肩のあたりに、いつもほのかにしかし確実にあるいい香りは、美しい謎だった。パイプ煙草とコロンとを中心にして醸成された大人の男の香りだが、まだ幼いぼくにはそこまではわからなかった。上質の品のいいタイがきっちりと結んであると、その結び目のつくり方も謎だったし、そのタイをシャツの胸にとめている小さな銀のタイタックのしかけも、魅力的な謎だった。えりがどうしていつもあんなに美しくぴたっとフラットになったままなのかも、謎だった。薄いセルロイド板をステイかえりの内部にぬいこんであるからだと、そのしかけが判明したのはずっとあとになってからだ。

 父親が着ているビジネス・シャツは、いつもおろしたてのように新しく、きちっとしていた。なぜしわがよらないのか不思議だったし、父親がいったい何枚のシャツを持っているのかも、謎だった。白地にストライプの入ったシャツだけでも、ひとつひとつが微妙にそして決定的にちがっていて、何とおりあるのか見当もつかなかった。

 ブリフケースを開くと、英語の書類や手紙、雑誌、読みかけのペイパーバック、皮表紙のルースリーフ・バインダーになった手帳、リーガル・パッド、チューインガム、煙草など、シャツの謎や魅力をひきたてる小道具がふんだんにつまっていた。万年筆やシャープ・ペンシルやボールペンも、謎だった。いまもしあれば完璧なアンティーク時計としての造型や雰囲気をたたえていた腕時計の、たとえば秒針の動きも謎だった。ベルトのバックル。サスペンダー。カフ・リンクス。謎は謎を呼んでいた。

 出張に出るときに着ていたシャツと、帰ってきたときに着ているシャツとがまるでちがっているのも、大いなる謎だった。スーツはおなじなのにシャツとタイがちがっていて、そのことによって父親の雰囲気も、大きく楽しく異っていた。オーヴァーナイターのなかにシェーヴィング・ギアや下着の着替えといっしょにシャツも入れていっただけのことだが、幼いぼくには謎だった。

 父親のシャツにまつわるこのような数多くの謎は、結局、父親はいったいなにをやっているのか、つまり仕事とはなになのかという最大の謎につながっていた。父親という謎の象徴として、ビジネス・シャツの謎があった。当時の父親はまことに父親らしく機能し、その父親に数多くの魅力的な小道具が奉仕していた。シャツは、そのなかでも主役級の役割を果たしていた。

 さて。もうほんとに、とっくに少年期を終ってしまった現在のぼくは、幼い少年の目に謎に満ちた魅力として映じるようなシャツの着こなしをしているとは、とうてい言いがたい。必要最少限の数のシャツしか持っていないから着こなしもなにもないわけだし、昔の父親らしい父親というものの伝統を継承しているわけでもないから、シャツ姿に謎などありえない。

(『すでに遥か彼方』1985年所収)


1985年 『すでに遥か彼方』 シャツ 子供 少年時代
2016年6月19日 05:30
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