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小さな島にいると自分がよくわかる、という話

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 ぼくにとっての小さな島の魅力は、「南」とか「夏」とかの魅力と、不可分に一体となっている。ぼくが大好きな島は、南の島かあるいは夏の島なのだ。真夏でもなお肌寒い北の海の島はまだ体験がないから、好きだかどうだかわからない。

 南とか夏とかは、ぼくにとって非常に重要な意味を持っているようだ。理屈をこえたところで夏や南が好きなのだが、あえて理屈で説明するなら、夏も南もぼくにとっては、感覚の自由な解放に大きな役を果たしている、ということが、はっきり言える。

 ぼくの体質、さらには感覚の質のようなものが、夏や南と相性がよく、自分と相性のいい気象条件あるいは季節的な条件のなかにぼくがいるとき、そして地理的な条件が小さな島だったりすると、もう最高にいい。

 小さな島は、ぼくにとっては、日常生活のための場所ではない。だから、小さな島へ渡ることは、いつもの日常生活から、しばし抜け出すことを意味する。日常から解き放たれたぼくは、小さな島で自由になる。小さな島のなかでの、これといった義務感のともなわない日々は、感覚の世界という複雑さをきわめた迷路の内部を、風とおしよく掃除する日々となる。日常のなかにいつづけると感覚の世界が目づまりをおこしたりさびついてきたりするというわけではかならずしもないのだが、日常をはなれて島という好きな場所に身を置くと、自分の感覚がどのような質なのか、あらためて新鮮に確認できるのだ。

 日常生活をいつもの場所に置き去りにして、夏の香りのする小さな島に着いたときの解放感は、素晴らしい。

 ぼくは、気持がパッと解き放たれるような広い場所が好きなのだが、到着したとたんの小さな島など、この広い場所の好例だ。その島のなかで昔から生活をいとなんでいる人たちにとっては、島は解放的な広い場所ではなく、まったく逆であったりすることのほうが多いのだろうけれど、外から島へたまにやってくるだけのぼくにとっては、島は広い。

 島の面積だけをとりあげれば、たしかに島はせまいのだが、まわりを大きな海にかこまれていることを思うと、絶海の孤島ほど広い。

 海底を想像のなかに思い描くと、島は海底に根をおろして高くそびえている山なのだ。海底からのびてきたこの山の頂上が、わずかに海面上に顔を出している。これが、島なのだ。海底からの高さ、あるいは逆に言えば、海底までの深さを立体的に想像できることは、ぼくにとってはとても大事なことだ。

 島から海底までの深さの認識は、その島をとりまいている大きな海というものの総体の認識へと、広っていく。海は、ものすごく大きい。圧倒的な量の水だ。地球というひとつの小さな惑星を宇宙という空間に出て観察した場合、そのもっとも大きな、そしてもっとも目立った特徴は、この海だという。海は、地球の基本だと言ってもいい。この、非常に大事な基本である海を、小さな島は、なぜだかとても立体的に、ぼくに認識させてくれる。

 海というものの深さと大きさ、そして神秘的なありさま、さらには、その大きくて神秘的な海がいかに複雑に生きているか、といったことに関する認識は、地球という小さな惑星の存在そのものの不思議さの認識につながってくる。なぜ地球はいまここにこんなふうにしてあるのだろうかという、説明不可能な不思議さに対する深い感銘のようなものが、ぼくの内部にわきあがってくる。

 そして、この認識は、ぼく自身の不思議さに、つながってくる。なぜ、ぼくは、ここにいるのだろうか。小さな島という、ぼくにとってはとてつもなく広いスペースのなかで、なぜぼくがぼくとしてここにいるのかと自らに問いかけるとき、地球がその片隅にささやかに身を置いている宇宙という、ものすごく広くて不思議なものの存在が、ひとまずたしかな回答になってくれているようだ。

 宇宙という広大な空間をのぞきこむための、自分にとってのもっとも好みの場所が、ぼくにとっては、夏の、あるいは南の、小さな島なのだ。

 圧倒的に広くて量のある海。その海の底からえんえんとそびえてきて海面上に小さな島として顔を出しているマイ・アイランド。海にかこまれた小さな島という絶対的なスペースは地球を意識させてくれ、地球に関する認識は、ごく素直に、宇宙の広さや不思議さに、結びついていく。

 宇宙の広さや不思議さは、真に存在する絶対的なものだ。

この絶対的なものを、たとえば小さな島からこぎ出した小さな船のうえからながめたりすると、自分にとっての原風景に確実にいま自分は接しているのだな、という気持がする。

 たとえば、大海原のむこうに太陽が沈んでいく日没の時間など、ぼくにとっては、宇宙の大空問のなかに自分が解き放たれる時間だ。

 砂浜に立って、あるいは小さな船で沖へ出て、壮大な夕焼けの時間をすごす。まっすぐに一本の水平線がはるか彼方に見えていて、その水平線から上の空いっぱいに、日没の光りのドラマが展開される。

 文句なしに美しいこういった大海原の落日の光景を人々は、普通、平面的にとらえるようだ。

 水平線に接している空が一枚の巨大な平たいバックドロップであり、そのバックドロップのうえに光りのドラマが映し出される、というふうにとらえているようだが、ぼくにとっては、もうすこし立体的な光景なのだ。

 地球の認識がいちおうちゃんとあるわけだから、目の前に水平線まで広がっている海は、巨大な曲面となって水平線をこえてなおそのむこう側へ落ちこんでいく球面の一部分としてぼくは感じとっている。

 この球面の、ぼくからは見えないすぐむこう側にも途方もない空間があり、その空間の底に太陽が浮かび、水平線の上の空を照らしている。

 地球と太陽との、こういった関係の立体感覚を言葉で書くのは、すこしむずかしい。沈んでいく夕陽の刻一刻たる進行は、宇宙のなかにぽっかりと浮かんでいる太陽に見守られて、おなじく宇宙に浮かぶ地球が、堂々と回転している、その回転のスピードだ。

 瀬戸内海の小さな島で、子供のころぼくはよく日没をながめた。時間がとまってしまって、空間意識だけになってしまったような状態で、陽が海に沈むのをよく見たものだ。

 そして、おなじく子供のころ、太平洋のまんなかの小さな島にはじめて身を置いて、大海原の日没を見るということをきっかけにして、宇宙のとてつもない広さの不思議や神秘みたいなことを全身で立体的に感じとることを、おこなったのだった。

 自分にとって小さな島がどのくらい大事であるのか、こうしてこの記事を書いていると、あらためてよく理解できる。おまえにとって非常に大事な原風景はここだよと、小さな島がぼくにいつでも語りかける。

 小さな島でぼくが感じとっている、以上のような宇宙感は、たとえば波のりによって、さらにいっそう強く増幅されていく。ロングボードでビッグ・ウェーブに乗るときなど、宇宙にむかって飛びすがるようなスリルがあって、なんとも言えない。

 ビッグ・ウェーブといっても、ぼくがこなせるのは、たかが知れているのだが、ぼくがつかまえて乗るその波は、乗るそのつど、ぜったいにふたつとない、一度きりのものだ。

 各種の気象条件によって地球の海にひきおこされた波は、広い海をうねってくる。思いがけないところにあった小さな島のリーフに乗りあげて行き場を失ったうねり波は、波のりに最適の波となる。

 テイクオフする寸前まで、この波の背のうえで、ぼくは、空にむかって持ちあげられていく。人工的なしかけに頼らずに空にむかって自分が持ちあげられていくという体験は、波にでも乗らないかぎり、ちょっとないのではないだろうか。

 小さな島にいるときには、ただでさえ宇宙の大空間意識がぼくの内部に新鮮に充満しているのだから、波のうえで空にむかってかかえあげられていくときの感覚は、じつに素晴らしい。

 波のスロープを滑り降りるときは、まわりの海や波のすべてが、宇宙だ。ほんの一瞬だが、ぼくはそのとき宇宙と一体になる。

 早朝から波に乗り、午後は昼寝をし、夕方のすこしまえから島の島らしいところを気のおもむくままに楽しみ、夕陽の時間になるとその夕陽にむかって海へ出ていき、暗くなってから砂浜へかえってくる。そして、夕食。

 夜の星空を静かにあおぎ見ながら風に吹かれていると、もう完璧にぼくは宇宙のまんなかなのだ。

底本:『コーヒーもう一杯』角川文庫 1980年


1980年 『コーヒーもう一杯』 サーフィン 季節 宇宙 自然
2016年8月3日 05:30
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