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紀子が住んでいた家

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 映画と家あるいは間取り、という主題がまっすぐに結びつくいまの僕の興味は、紀子が住んでいた家だ。紀子とは、小津安二郎という映画監督がかつて作った、『晩春』『麦秋』そして『東京物語』という三本の映画のなかで、主演の原節子が演じた女性の役名だ。紀子三部作とも言うべきこの三本の映画のなかで、原節子は紀子というおなじ名で登場する。

『東京物語』では、紀子さんは鉄筋コンクリート造りのアパートの、文字どおりの一室にひとりで住んでいる。しかし『晩春』と『麦秋』の二本では、北鎌倉にある一軒の木造二階建ての、ごく普通の民家に、その家の未婚の娘として住んでいる。

『晩春』は一九四九年、そして『麦秋』は一九五一年の作品だ。たいへんによく出来た、じつに映画らしい映画だ。内容はどことなく似ている。この二本について語るとき、二本はしばしば僕の頭のなかで交錯する。どっちがどっちだったか、わからなくなることが何度もある。もっとも似ているのは、両方のドラマの主たる舞台となる、その一軒の家だ。ひょっとしたらおなじセットかもしれない。よく似ている。

 この当時のこういう民家に、僕はなんの体験もない。内部がどうなっていたのか、僕はなにひとつ知らない。懐かしい気持ちなど、ひとつも感じない。まったく未知の世界だ。そうでありながら、『晩春』と『麦秋』をごく最近になって初めて観て以来、紀子さんの家とその間取り、そしてそれらが映画のなかで果たす映画的な役割について、僕はなにかといえば思いめぐらせている。

 道に面して板塀がある。その板塀に、おなじく板で作った引き戸がある。この戸を開くと、ちりんちりんと音がする。戸にベルがつけてあるからだ。戸をなかに入ると、敷石がふたつあるいはせいぜい三つで、玄関だ。玄関にも引き戸がある。幅の狭い縦格子の裏にすりガラスのはまった、細いレールの上を滑車で動く引き戸だ。

 この戸を入ると、そこは狭い玄関だ。奥に向けて廊下がのびている。突き当たって左はおそらく風呂場、そして右側へ入るとそこは台所だ。この廊下の途中に、二階への階段がある。そして玄関からもう一本、廊下が別の方向へのび、途中で直角に曲がっている。曲がってからのその廊下は、主寝室という言いかたになぞらえて主座敷と仮に僕が呼んでいる、居間に相当するような座敷の外の縁側となっている。

 このような家の現物は知らない僕が、映画の画面だけを頼りに見当をつけたその家の間取りの一階は、こんなふうだ。映画がなにであるか、同時代の他の映画監督たちにくらべて、遥かに抜きん出てよくわかっていた小津安二郎は、紀子の家と間取りを、ものの見事に映画のなかの物語そのものにしてしまう。間取りはごく限られた、しかもおなじ位置と角度からの撮影しかされないのだが、それゆえにと言えばいいのだろう、その家に登場する人物たちひとりひとりにとっての、映画のなかでの決定的な時空間となり得ている。

 家へ帰って来た人が玄関に入る。誰であれいつであれ、おなじ位置と角度から、彼らは画面の中にとらえられる。廊下の奥から歩いて来る、あるいは奥へ歩いていく。これもおなじ位置と角度だ。廊下を間にはさんで、両側にある部屋を人は出たり入ったりする。これも頻繁に繰り返される。廊下を歩いていき、あるいは歩いて来て、ふとその人は直角に向きを変え、二階への階段へと姿を消す。二階は紀子の部屋だ。二階には、階段を上がって来たすぐのところの部屋とその奥の部屋と、少なくとも部屋はふたつはあるようだ。

 この二階の部屋、そしてそこへの階段は、おそろしく純度が高く映画的だ。階段そのものは、少なくとも『晩春』と『麦秋』とでは、一度も画面に出て来ない。廊下から直角に進行方向を変え、視線をごく軽く階段の上へのばして、紀子はふっと消える。台所や茶の間が主婦の場だとするなら、未婚の娘である紀子は、そことは直接の関係は持っていない。だから彼女は二階へ消える。そして『晩春』と『麦秋』では、紀子は結婚してその家を出ていく。何度となく二階へふっと消えていた紀子は、その二階からもいなくなる。

 紀子がいなくなったあとの二階の部屋は、一軒の家が家族にとっては時間の経過の場であることを象徴的に語っている。その経過のなかで、家族はあるときひとつに集まり、あるとき散っていく。その様子ではなく、その時間の経過を、間取りで見せるという映画的特権を、小津があくまでも小津らしく駆使しているのを見るのは、映画的快感の頂点だ。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 一九九六年


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2015年10月19日 14:29
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