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雨の夜のドライ・ジン

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 ドライ・ジンを飲んだのがいけなかった。しかも、夜中の二時だ。こんな時間まで起きていることは、ぼくの日常生活のなかには、あまりない。そして、夜中の二時に、室温の、したがってほんのりと生あたたかい感じのするドライ・ジンをストレートで飲むことも、めったにない。

 だが、そのドライ・ジンは、おいしかった。酒は、どんな酒でも、味覚的には非常に面白く楽しい。その面白さにつられて飲んでいると、やがて酔ってくるのが、鬱陶しいけれど。

 ドライ・ジンの最初のひと口が食道をくだっていくみじかい時間のなかで、ぼくはギムレットを思い出し、ギムレットからヘミングウェイを、なぜだか連想した。

『キリマンジャロの雪』という標題を持つ短編集のなかに、「フランシス・マコーマーの短い幸せな生涯」というショート・ストーリーがある。この作品の冒頭にギムレットが登場する場面がある。夜中の二時に飲んだドライ・ジンが胃にくだっていくまでのあいだに、なぜだか自分でもわからないが、このシーンを思い出したのだ。

 フランシス・マコーマーと、マコーマーの奥さんマーガレット、そして友人のロバート・ウィルスンの三人が、サファリのダイニング・テントにいる。昼食の時間だ。ライム・ジュースがいいですか、それともレモン・スクオッシユですか、とマコーマーがたずねると、ギムレットにしよう、とロバート・ウイルスンが言う。 

「私もギムレットだわ。なにか飲まずにはいられない」と、マーガレットが言う。書き出しからここまで、ぼくの持っているペーパーバックだと、八行ある。かなり不吉な感じがはっきりと伝わってくる、読んでいてつらい書き出しだ。

 そのつらさを思い出しつつ、ぼくは、ひとりで、ドライ・ジンを飲んだ。雨の夜だった。しばらくおだやかだった雨は、また激しくなってきていた。

 ヘミングウェイのショート・ストーリーをひとつ、読みかえしてみようかなとふと思ったぼくは、そうだ、あの二冊のペーパーバックはどこにあるだろうか、と自分にきいた。ぼくが一九五〇年代のなかばからずっと持ちつづけている二冊のペーパーバックだ。二冊ともヘミングウェイで、一冊は『持つ者と持たざる者』そしてもう一冊は『アフリカの緑なる山々』だ。

 なにしろ一九五〇年代なかばのアメリカのペーパーパックだから、表紙絵の雰囲気そして年月の内部で自然に蓄積されてきた物としての古さのようなものに、妙な親密感がある。ヘミングウェイの好きな友人たちに何度もねだられたが、手放さずにおいた二冊だ。

 この二冊を手にとってみたくなったぼくは、捜しはじめた。三畳くらいの広さの、たて長の納戸の壁面いっぱいに奥行きの深い棚があり、どの棚にもペーパーパックが四重につまっている。六か月ほどまえに見かけたあたりに見当をつけて捜していると、見つかった。なつかしい旧友との再会のようだ。ついでに、『キリマンジャロの雪』『老人と海』『海流のなかの島々』『パパ・ヘミングウエイ』『パパ』などのペーパーバックを出してきた。ひろい読みしながらドライ・ジンをもうすこし飲み、その夜はそれで眠ってしまった。

 あくる日、起きたぼくをむかえてくれたのは、素晴らしい快晴の朝だった。朝食のオレンジ・ジュースとプロテイン・クラッカー、そしてヘミングウェイのペーパーバックを持ったぼくは、樹々にかこまれた場所へ出ていった。

 朝ぎりぎりまで雨は降っていたらしく、樹々の葉はまだ濡れていた。明るい陽ざしに緑の葉は輝き、裸でうけとめるとまだほんのすこしだけ冷たい風が、おだやかに吹いていた。

『キリマンジャロの雪』のなかの、不眠症の恐怖みたいなことについての一編を、読みなおしてみた。まあ、なんという不器用なぎくしゃくとした、つらそうな文体であることか。ヘミングウェイの文体は力強く簡潔で男性的ということになっているのだが、ぼくにはそうは思えない。自分にとって自然ではない文体を、非常に苦心して、つくりあげている。つくっていく過程のなかでのさまざまなつらさが、おなじくつらさを描き出すために有効に作用しえた、という感じが強くあり、書き出しの一行を読んだだけで、こんなつらいものは読みたくない.と思ってしまうような短編だってある。簡潔で力強い文体というとらえ方は、大いなる誤解だ。

 雨の夜のドライ・ジンとヘミングウェイ。そのあくる日、快晴の朝の陽ざしとオレンジ・ジュース、プロテイン・クラッカー、そしてヘミングウェイ。奇妙なとりあわせだろうか。

『コーヒーもう一杯』角川文庫 1980年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 1995年


1980年 1995年 『コーヒーもう一杯』 エッセイ・コレクション ドライ・ジン ヘミングウェイ 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』
2016年6月9日 05:30
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