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深まりゆく秋です

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 たとえば、深まりゆく秋という日本の季節感のなかをオートバイでツーリングしていてめぐりあう食べもの、飲みものについてすこし書いてみようかなと考え、過去の体験をあれこれよみがえらせていて、ひとつ面白いことに気づいた。日本の季節感のなかをオートバイで走って体験した食物誌は、そのほとんどが、日本的な食べものばかりなのだ。

 いうまでもないことだが、オートバイではライダーの体がむきだしになる。風や空気や陽ざし、そして土ぼこり、排気ガス、雨、雪、みぞれなどに、ライダーの体、つまりライダーの全存在が、直接に触れあう。詳しく書くと長くなってしまうのだが、深まりゆく秋、というようなきわめて日本的で、しかもはっきりと全身の感覚で感じとることのできる季節感のなかをオートバイで走りまわることは、ライダーがその季節感のなかへ深く入りこみ、季節感そのものになってしまうことを意味する。季節感とその季節感におおわれている特定の地域の地理体系に、ライダー自身がなってしまう。おそらくこのせいだろう、食物誌はごく自然に日本的であり、たとえばアメリカを自動車で走りまわるとき、日本的な食べもののことなどこれっぽっちも思い出さないのと好対照で、とても面白い。

 さて、深まりゆく秋のなかをライダーはオートバイに乗って走る。その走る過程のなかでの食物誌を、思い出した順に無作為にならべていくと、まず、水がある。深まりゆく秋の水というと、素晴らしい小春日和の午後、どこと場所は明記しなくとも、とにかく東京からは遠い田舎の、村の小学校の水飲み場で飲む水など、うまい。

 オートバイで長距離を走っていて、のどのかわきを覚えて飲む水は、たいていの水がうまいのだが、ひなびた村の古く懐かしい木造の小学校の、ひょっとしたら戦前からのものではないかと思えるような水飲み場で、蛇口からじかに口に受けて飲む水は、おいしい。

 花崗岩(かこうがん)系の岩でできている山の中腹とか、ふもとの村で飲む水も、おいしい。秋の夕暮れ、まさに静かな里の秋のなかで、農家の庭先の井戸でおばあさんに汲んでもらって飲む水は、日本の水だ。

 さっぱりとしていて淡白で、混じりものがすくなく、蒸留水ではないけれども純粋に水と呼ぶにふさわしい。こういう水はミネラル・ウォーターとして市販されていることが多い。地下の水脈をポンプで汲みあげ、雑菌や混じりものをなくしてビン詰めにすればそれでいい。

 井戸水を汲んでくれたおばあさんは、梅干しをくれたりする。干し柿のこともある。秋の婚礼の宴にでた寿司の残りものである場合もある。みんなおいしい。

 標高二千メートル、青い空の絹積雲(けんせきうん)が大きく傾いた太陽にうっすらとオレンジ色に染まるころ、山小屋ふうなレストランで山菜ソバを食べる。さすがに山菜はたくさん入っているが、ひとつ落としてもらった生卵の黄身が最高においしかったりする。味が濃厚で、東京のスーパー・マーケットで売っている卵は、あれは卵とは呼べない。

 田舎道で出会った耕耘機のおじいさんは、魔法ビンの番茶を飲ませてくれる。畑の上を斜めに照らす秋の西陽を見ながら飲むと、なんともいえない。八月の終わりがすでに秋である北海道で、夏の観光客たちが去った道路をオートバイで走る。屋台のトウモロコシを買う。一本はその場で食べ、もう一本はアルミフォイルにつつんでもらい、シリンダー・フィンのあたりのどこか冷却効果の落ちないところにはさんで走り、二時間くらいあと、エンジンの熱であつく保たれたのを、誰もいない草原にひとりすわって食べる。そのライダーは、北海道の秋そのものになってしまう。食べものはすべて土地や海という自然から生まれてくるものだという素朴な事実を、こんなとき、痛いほどに強く感じる。

底本:『アップル・サイダーと彼女』角川文庫 1979年


1979年 『アップル・サイダーと彼女』 オートバイ 季節 食べる
2015年11月4日 05:30
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