アイキャッチ画像

大陸のエネルギーと大海原のエネルギー

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 北アメリカの太平洋岸のハイウェイを自動車で走っていると、走っているあいだずっと、巨大な海の存在を身近に感じつづけることができる。

 大きさにおいては負けず劣らずの大陸と海とが接しあうところを、海ぞいに、北へ南へと走る。北へむかっているときには自分の左側に、南にくだっていくときには右側に、巨大な海の鼓動が、いつもある。

『エデンの東』のサリーナスから太平洋にむけて二十マイル足らずだろうか、68号線を走っていくと、モンタレーの町およびモンタレー半島がある。

 この半島で感じとれる太平洋のエネルギーの律動に、昔から、数多くの芸術家たちが、魅せられてきた。なかでもジョン・スタインベックは有名だ。いまは操業していず、観光用のレストランやブティークになっているが、モンタレー湾の南側には、キャネリー・ロウが海に面してまだ残っている。一九四〇年代のはじめにその最盛期を持った、イワシのカンづめ工場地帯だ。一九四〇年のなかばに、おそらく潮流の変化が原因だろう、イワシはとれなくなった。

 スタインベックが『怒りの葡萄』という作品にそのタイトルをつけたのは、モンタレーでだったと思う。完成した原稿を友人たちが輪読し、『怒りの葡萄』というタイトルが生み出された。

 ロバート・ルイス・スティーヴンスンも、モンタレーで感じる太平洋に、多くのものを見ていた。ジャック・ロンドンやロビンソン・ジェファーズたちも、そうだった。半島をはさんでモンタレーの町とは反対側の、南のカーメール湾に面したカーメールの町は、町としての開発を最小限におさえる努力をとおして、太平洋を大事にしてきた。いまでもそのことはカーメールの町ではっきりと感じることができる。

 夏の朝、早く、海にむかう。太平洋岸のレッドウッド地帯に特有の霧が、海をおおっている。岩に衝突しては砕ける波の音が、なぜか不思議に気持をやすらげてくれる。シー・ライオンの鳴き声が、霧の彼方から聞えてくる。

 陸のほうから、次々に霧がひいていく。海が見えはじめる。モンタレー湾の奥のほうでは、海はまことにおだやかなのだが、太平洋にむかって突き出ている半島の部分では、海は、いつだって圧倒的な威厳をたたえて荒々しい。

 霧の晴れた海は、青く輝く。空も青い。半島の突端の岩場で、一日じゅうこの海を見てすごすのは、不思議な体験だ。

 太平洋という、地球の最も特徴的な巨大なくぼみに、すさまじい量の水が満ちている。そして、その太平洋に、北アメリカ大陸が接している。

 大陸も太平洋も、たいへんなエネルギーをたたえている。そのふたとおりのエネルギーのやりとりの無数にある現場のひとつが、モンタレー半島だ。そしてそのエネルギーのやりとりを、人間に対してほかの場所よりも特に鋭く感じさせる場所というようなものがあるなら、そのうちのひとつが、確実にモンタレー半島、そしてその南のビッグ・サーだ。

 海と大陸がエネルギーをやりとりするありさまを、小さな人間は、ただあっけにとられて傍観するよりほかない。このエネルギーに自分なんかかないっこない、と誰もが感じる。深い畏敬の念にさしつらぬかれて、小さな人間は巨大な海を目のあたりにして、ひたすら無言だ。

 大陸も海も、昨日や今日の新製品ではない。途方もない過去と、おなじく想像を絶した未来との中間で、永遠の具現のように堂々としている。

 自分などとうていかないっこない、すさまじく巨大なもの、たとえばこの太平洋のようなもののそばで日々を送るのは、精神衛生にいいようだ。海の息づかいや律動は、芸術的な創造への衝動を、静かにゆり動かしてくれもするようだ。

 モンタレーの町で夏のあいだに三度おこなわれるというアートやクラフトのフェスティヴァルもでは、太平洋をテーマにした絵を、何点も見た。太平洋というものの、物理的な大きさをこえたなにものかに見事に圧倒されつつ、なんとかそれを自分の身にひきうけようとして描いた絵が、多いようだった。

 このフェスティヴァルで知り合った画家の家を見せてもらった。カーメル・ヴァレーを流れるカーメル河をこえ、ステート・ハイウェイ一号線を南にくだっていく。

 ポイント・ロボスをこえてなおも海ぞいに南へいくと、やがて太平洋に陽が沈む時間になった。このあたりからビッグ・サーをこえてサン・シメオンの近辺にかけて、大陸は海ぎわにサンタ・ルシアの山塊を持ち、その山裾(やますそ)が複雑な地形をつくりだしつつ、太平洋に落ちこんでいる。自動車で走っていると、あらゆる地形が巨大な海にむかって斜めにかしいでいる、という印象がある。

 枯草と緑の草が半々に生えたような、町はもちろん人家など一軒もない地形を、風がぼうぼうと吹き渡る。夕陽をうけとめて大陸は渋いオレンジ色に沈みこみ、太平洋とそのうえにおおいかぶさる空は、まっ赤になっていく。

 壮大とか雄大とか、そういった形容語句こそまさに似つかわしくない光景のまんなかに、自分がぽつんと、とりとめもなくしかも宙吊りのように存在する。体が弱かったり、すこしでも気持が落ちこんでいるときには、こういった光景は、おそらく逆効果だろう。

 その画家の自宅は、落日直後の太平洋を見おろす崖のてっぺんにあった。崖から海にむかって故意にあぶなっかしく張り出させたような構造で、もの静かな美しい奥さんと猫、そして犬がいた。

 フロアから天井までガラス張りになった壁が海に面していて、そこから海を見ていると、崖の下で砕けつづける波の音と風の音だけが聞こえるのだった。

 その音を聞きつつ、ゆっくりと夜になっていく海と空を見ていると、肯定的な意味での絶望感が心の内部を静かにひたしていくのが手にとるようにわかった。

 画家と奥さんにこの気持を語ったら、彼らも同感だと言っていた。海にも空にも、風にも大陸にも、自分はかないっこない、そのかないっこないものをじっと見つめ、しっかりと全身に感じとり、圧倒されていく。そして、その圧倒された結果を、たとえば自分なら、絵具をつけた絵筆の、ほんのこれっぽっちの動きという、人間にふさわしい行為によって表現するのだと、その画家は言っていた。

 眠りにつくと崖の内部をとおして海の音が聞こえ、その音は素晴らしい快眠の底に人をさそいこんだ。

底本:『コーヒーもう一杯』角川文庫 1980年

今日のリンク:モントレー湾水族館のライブ・カメラ|Monterey Bay Cam|海の音も聞こえます。

関連エッセイ

1月3日 |君はいま島へ帰る


6月20日 |太平洋の海底地図を見ながら


11月15日 |いま、ここにある、自分の場所


11月16日|ロングボードの宇宙


11月30日|L・L・ビーン社のアウトドアーズ哲学をつくった人


12月3日|レッドウッドの森から


1980年 『コーヒーもう一杯』 『怒りの葡萄』 アメリカ カーメール スタインベック ハイウェイ モンタレー半島 大陸 太平洋 自然 道路
2016年6月21日 05:30
サポータ募集中