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ある日の午後、僕は「本のオールタイム・ベスト10を選んでください」と、電話で頼まれた

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 僕にとっていつまでも大事な本の一方の極に、シャーウッド・アンダスンの『ワインズバーグ・オハイオ』(邦訳は新潮文庫)がある。

 十四、五歳の頃、自宅にたくさんあった英語の本のなかからたまたまこれを選んで読み、大きな感銘を僕は受けた。

 それまでの僕は、小説とは暇つぶしの娯楽読物だと理解していたから、そうではない小説にはじめて触れて、僕は驚いた。心の底から驚愕したと言っていい。言葉で小説を作り出し、その小説によってこんなことまで可能なのかと、小説の可能性にじつはこのとき僕は目覚めた。

 いま僕は小説を書くことを仕事のようにしている。小説を書く人としてのスタートは、僕の場合この『ワインズバーグ・オハイオ』にある。不思議なスタートをきったものだと、自分でも思う。小説を書くことは、おもてむきは僕の仕事であるけれど、僕自身にとっては、趣味あるいは多少とも知的な遊びだ。小説を書いて生計を立てるなど、したくないと僕は最初から思っていた。そして幸いにして、趣味あるいは遊びにとどめることが、現在でも出来ている。こういったこともすべて含めて、僕は『ワインズバーグ・オハイオ』からはじまっている。

『ワインズバーグ・オハイオ』を一方の極とするなら、その反対側の極には、英語の文章の書きかたのマニュアルが、いつもかならずある。僕にとって、『ワインズバーグ・オハイオ』とおなじ程度に、これは常に大事だ。一般的にはそのような本は『ライターズ・ハンドブック』と呼ばれていて、人間のさまざまな営為のために効果的な文章をいかにすっきりと正しく書くかについて、多くの方向から具体的に教えていくための本だ。

 この一冊、ときまったものはなく、何種類も僕は愛読している。常に何種類も刊行されていて、需要はあとを絶たない。どれもみな興味深いから、僕は目についたものはすべて買うことにしている。年ごとに版があらたまるものも、いくつかある。いちばん新しく手にいれたもの一冊を、ここではあげておこう。ジョン・マッカーナンという人の『ザ・ライターズ・ハンドブック』だ。

 人間を言葉から切り離すことは出来ない。人間は言葉を使う社会的な生き物だ。言葉があるからこそ、人間は生命を保っていける。人間から言葉を取ってしまったなら、ほとんどなにも残らない。言葉にまったく触れることなしに人間を赤ちゃんから育てると、声はろくに出ないし性欲もまったく自覚しない。食べる行為の一部分にたいへんな執着と敏感さを示すだけで、あとはなにもせず体をやすめ、ぼんやりと過ごす。そして短命に終わる。『ライターズ・ハンドブック』の新しいものを買うと、僕はことのほかうれしい。そのような本に、僕は、きわめて人間的なものを感じる。人間的、と日本語で言うと、衝動としか呼びようのないような情念の動きや、きちんとした説明もおぼつかない、極私的なノリのようなものへの一時的な執着などを、すくなくともいまの日本では意味するようだ。こういうものとはまったく反対の位置にある人間的なものを、僕は『ライターズ・ハンドブック』に感じる。

 手に取って開くたびに、おまえは人間だよ、とその本は僕に言う。そうだ、人間なのだ、とそのたびに自覚する僕は、僕なりに言葉をきちんと使って、遊びでも趣味でもいいからやっていこう、と思う。

『ワインズバーグ・オハイオ』と『ライターズ・ハンドブック』の両極のあいだは、相当に広い。さまざまな本がそのなかを埋めている。八冊だけそこからすくい上げると、僕のオールタイム・ベスト10になる。

 なにを取り上げるといいか、僕は判断に迷う。両極とも文字だけによる本だから、残る八冊も文字だけの本で統一してみよう。いま僕の手もとにある本のなかだけから、選んでみよう。読んだ本は、僕はよほどのことでないかぎり、人にあげてしまう。英語の本はもらい手がすくなく、東京に一軒だけある外国の人たち相手の古書店に寄贈している。

 アン・モロー・リンドバーグの著作は、どれもみな僕は好きだ。作者自身がたいへんに素敵であることに加えて、書くものがまた素晴らしいのだから、僕はこれからもずっと変わることなく、アンの熱心な読者であり続けるだろう。ここでは『ギフト・フロム・ザ・シー』(邦訳は新潮文庫『海からの贈物』)をあげておこう。翻訳があるはずだが、僕は日本語訳題名を知らないから、以下すべて著者名も含めて、カタカナ書きしておく。

 この本の背景は、海辺だ。そしてその海辺に来ている著者の時間は、日常から解き放たれた自由な時間だ。海が海岸へ貝殻を打ち上げ、心ある人へのギフトとすることに似て、解かれた心は海が貝殻を砂浜へ持ってくるのとおなじように、思索をはじめる。この本の題名の意味は、ここにある。

 レイチェル・カースンの本も僕にとってはいつまでも大事な本だ。『サイレント・スプリング』(邦訳は新潮文庫『沈黙の春』)と『ザ・シー・アラウンド・アス』(邦訳はハヤカワ文庫『われらをめぐる海』)と、どちらを取り上げようか。どちらもたいへんな名著だから、翻訳はかならずあるはずだ。海の本のほうを、ここでは僕のべスト10のうちの一冊としておきたい。

『サイレント・スプリング』が世に出たのは一九六二年だった。僕が読んだのは、六八年くらいだったと思う。夢中になって読んだ僕は、読み終わって地球の弔いをすませた。地球はもう駄目だ、と僕は直感したからだ。それから二十年以上が経過している。もう駄目という状態は、いよいよ危ないという、一種の佳境に入っている。

 現代のポピュラー・フィクションのなかから、残る六冊を拾ってみよう。どの作品も、たとえばアメリカの大都市の図書館へいけば、いつだって再会が可能だ。どの本も自分で手もとに持っている必要はない。しかし、手離しがたいもの、別れがたいものは、さきほども書いたとおり、僕は手もとに残しておく。二度読むことはまずないだろうけれど、持っていたい。

 手もとには、そんなにたくさんはない。べスト10の残りを、どうやら満たすことの出来るだけの冊数しかない。そのうちの一冊は、パトリシア・ディゼンゾという作家の、『アメリカン・ガール』(邦訳は角川文庫)だ。これは素晴らしい小説だ。一九七二年に発表された。一九五〇年代のアメリカで育とうとしている、ひとりの平凡な少女とその母親の物語だ。このような物語には、時空間を飛びこえて身につまされてしまう傾向が僕には強くあり、主人公の少女の身の上はとても人ごととは思えない。

 信じがたいことに、この作品はかつて日本語に翻訳されたことがある。しかも文庫本で。いまではとっくに絶版だろう。古書店でたんねんに捜していくなら、みつかるかもしれない。ただし、アメリカの英語でこそ伝わる世界だと、僕は思う。この世界のこの文脈のなかで日常を送る人たちの、心情や直感などでつむがれ成立している世界なのだから。著者のパトリシア・ディゼンゾには、僕の知るかぎりでは、ほかに二冊の作品がある。めぐり逢いたいと思いつつ、まだ果たせていない。

 さらに一冊、ラッセル・バンクスの『コンティネンタル・ドリフト』(邦訳は早川書房『大陸漂流』)がいまも手もとにある。日本ではまだ知られていないが、たいへんな力量を持った、独特な世界を描く作家だ。『コンティネンタル・ドリフト』を、僕は昨年の夏の数日にわたって、夢中になって読んだ。それまで日常を営んでいた場所を捨て、異なった場所へ移動していった人がいるとして、その移動の動機や決意を支えるエネルギーがマイナスの方向にむかうエネルギーだった場合、移動した当人の運命はどのような経過をたどるか、ということをテーマにした堂々たる作品だ。

 もう一冊、こんどはアイラ・ウッドという作家の、『キチン・マン』だ。これについては、『片岡義男〔本読み〕術』(晶文社)という本のなかで、僕はかなり詳しく書いた。たいへんに面白い小説だった。アイラ・ウッドにとって、はじめての長編小説だという。ひとりの男性が、自分の愛した女性に対して、どこまでも徹底的に誠実であろうとする試みを描いた小説だ。

 日本語になおすと、四百字詰めの原稿用紙で千二百枚くらいにはなるはずだ。読みごたえはあるし、読んでいくあいだずっと、楽しませてくれる。繊細で鋭い感受性、鍛えあげられたタフな知的スタミナ、そして肯定的な力によって人生のでこぼこのすべてを刺しつらぬくユーモア。真の小説に必要なものすべてが、この作品のなかにある。

 さらにもう一冊。グレン・サヴァンという若い作家の『ホワイト・パラス』(邦訳は新潮文庫『ぼくの美しい人だから』)も、素晴らしい出来ばえだ。いまのアメリカの、ポピュラー・フィクションのもっともよく出来た部分は、この『ホワイト・パラス』や、『キチン・マン』、あるいは『コンティネンタル・ドリフト』あたりに確実に存在している。

『ホワイト・パラス』はグレン・サヴァンにとって第一作だ。ロミオとジュリエットという古典的な組み合わせによる、現代における恋愛の可能性のひとつのかたちを、サヴァンは見事に描き出している。別れがたいがゆえに、いまでも僕の手もとにある。

 自分にとってのべスト10を順番に書いていくと、作家あるいは書き手が持っている力量というものについて、つくづくと僕は考えてしまう。誰がなにを書いてもいいのだが、書かれたものすべては最終的には正しい判断を下され、それぞれが落ち着くべきところに落ち着く運命にある。自分のことも含めて僕に断言出来るのは、二流や三流の書き手が書いたものは、かならずそれにふさわしい場所に落ち着くということだ。別れがたいから自分の手もとに残しておく作品は、それゆえに、そしてそれだけの理由で、すくなくとも僕にとっては一流だ。

 残るは二冊となった。ロブ・フォーマン・デューの『彼女が人生の時』と、フレデリック・バーセルミの『ムーン・デラックス』(邦訳は中央公論社)にしよう。二冊とも、自分がどんなふうに楽しんだかについて、すでに僕はほかの場所で書いた。

 ロブ・フォーマン・デューの作品には、なんとも言えず感心してしまう。力量の豊富さもさることながら、作品を書いていくときの態度というか気持ちというか根性というか、とにかく腰のすわりかたが圧倒的に正しく、その正しさのみから彼女は力を得て書いている。正論的な正しさではなく、自分が得た題材で小説を書くにあたっての、自分と題材との関係のありかたの正しさだ。

 一見したところたいへんまともに見える両親が、じつは感情の世界ではまるで大人ではなく、それが主たる原因で家庭生活が支離滅裂となり、ついには収拾がつかなくなってしまうことのなかに、彼らのひとり娘がまきこまれていく。

 まだ幼いけれどもすでに充分に賢いその娘は、ひどい目に遭いながらも必死で自分のありかたを模索し、ひと思いに急激な老成のような成長を内面において達成することにより、両親をはるか後方に置き去りにしてしまう。そのような物語が、この一冊のすぐれた小説のなかにある。僕としては、先にあげた『アメリカン・ガール』のほうにより直接的に共感するが、こちらの小説の主人公もフィクションのなかの他人とは思えない。

 最後にフレデリック・バーセルミの短編集『ムーン・デラックス』だ。いろんな短編集を僕は好んで読む。読むはしから人にあげていくが、この『ムーン・デラックス』だけはいまのところまだ手もとにある。多様な評価のしかたがあり得るような作品集だし、こういう作品をまったく理解出来なかったりごく低くしか評価しない人たちも、きっと多いだろう。

『ムーン・デラックス』のなかにあるような短編を自分でも書きたい、と僕は思っているようだ。自分が書くものとどこかですこしだけ似ている、とも思っているふしもある。だからなおさらバーセルミは好きだ。長い物語よりも短編のほうがいい。

 自分にとってのべスト10をこうして眺めてみると、自分とはなになのか、よくわかるような気がする。『ワインズバーグ・オハイオ』と『ライターズ・ハンドブック』の両極のあいだに、アン・モロー・リンドバーグとレイチェル・カースンという両極が入れ子のように入っていて、さらにその両極のあいだに、ポピュラー・フィクションの傑作が、自分の好みや共感のしかた、判断の基準などにしたがって、ならんでいる。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 1995年

今日のリンク:『ワインズバーグ・オハイオ』(S・アンダソン著、小島信夫・浜本武雄訳、1997年、講談社文芸文庫)
anderson


1995年 『水平線のファイル・ボックス 読書編』 アメリカ エッセイ・コレクション 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』 読む
2015年11月23日 05:30
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