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あほくさ、と母親は言った

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 僕には母親がひとりいる。日常的な日本語では、産みの母、と言われている。英語ではバイオロジカル・マザーと言うようだ。その産みの母は、育ての母、でもあった。あのひとりの女性が僕を産み、僕を育てた。そのことに間違いはない。僕は三十歳まで母親とおなじ家に住んでいた。

 母親からは多大な影響を受けているはずだ。しかし、これとこれとこれが、母親から受けた大きな影響です、とつまみ出して人に見せることが出来るような影響が、どこを探してもまったくない。これは不思議なことだ、と僕はずっと以前から思っている。僕は母親から、どのような影響を受けているのだろうか。

 母親は終生、関西弁の人だった。場合によっては東京の言葉を喋ろうとするのだが、幼い息子の僕が聞いても、その東京言葉はどこか妙だった。こてこての、という言いかたがある。母親は、こてこての関西弁でとおした。

 小学生の僕が学校から通信簿をもらってきて、僕の成績は悪いですよ、と母親に言うと、かまへん、かまへん、と母親は言っていた。通信簿を見た父兄は短い感想文を書くことになってます、と僕が念を押すと、あほくさ、というひと言で母親はかたづけた。成績の悪い子供は補習授業に出るのです、という僕の言葉を母親は、やめとき、やめとき、と言ってはらいのけた。

 この母親に対して、僕はごく幼い頃から、明らかに丁寧な東京言葉を常に喋った。なぜだろうか。母親にならって関西弁の子供になってもなんら不思議はない。しかし、そうはならなかった。母親の関西弁に対抗していたのだろうか。かまへん、あほくさ、やめとき、というような言葉そしてものの考えかたを、どこか深いところで、じつは僕は母親から受けついでいるのだろうか。

 日本が戦争をしていたアメリカ軍の激しい空爆を逃れて、僕は山口県の岩国へ移った。戦後は広島県の呉で過ごし、一九五三年に東京へ戻った。岩国でも呉でも、到着したその日から、僕は地元の言葉を喋った。瀬戸内にいたあいだずっと、方言を自在に操る陽に焼けた瀬戸内の子供だった。その僕が、母親に対してだけは、丁寧な東京言葉を喋った。なぜだったか。反面教師としての役割が大きかった母親に、幼いなりに僕は拮抗しようとしたのだろうか。

 母親には口癖のように頻繁に使う言葉が、いくつもあった。そのなかのひとつは、いまでも僕が忘れていない、読解力、というものだった。読んで理解する能力、というような意味で、いまでは使う人は少ないけれど、まだ立派に現役だ。読め、と母親はいつも言っていた。読むのは本だ。本を読め、と母親は言っていた。読んで理解することが出来るようになったら、そのことの積み重なりのなかから、自分でも文章を書くことの能力が、いっさい無理することなく、やがてかならず生まれて来る、というのが母親の信念だったようだ。僕の母親は奈良女子高等師範学校というところを卒業して女学校の先生をしていた経歴を持つ。この経歴は、読解力の信念を、充分に裏づけていた。そのことは、子供の僕にも、よくわかった。だからと言って、身近にある本をかたっぱしから読み、図書館や書店へ日参する子供に、僕はならなかった。

 本を読め、と母親はしきりに言ったけれど、僕に読ませるための本をたくさん買い込む、というような人ではなかった。本は充分な量が常にあったけれど、それらは僕のために買い整え用意したものではなかった。父親はハワイの二世で、日本語はほとんど理解しないし、しようとも思っていない、という人だった。だから彼から家庭へと持ち込まれる本その他は、英語のものだった。

 僕は二十歳のときから自分の文章を書き始めた。ただちにそれは仕事となり、以後ずっとその仕事を続け、現在にいたっている。じつにさまざまな文章を書いた。ある時期は翻訳も試みた。現在は主として小説を書いている。小説と並行して、いま書いているようなエッセイも、数多く書く。仕事のための基本的な材料は、日本語だ。

 なぜ書き始めたのですかという問いにいまならなんとか答えることが出来る。そのときどきの自分の必要に応じて、自分の言葉を探しそして選び、それらを自分の思考に出来るだけ近いところで使っていくためです、というような答えだ。まさに言葉の仕事ではないか。母親や父親が僕におよぼした影響力が、ここまで届いているとは、とうてい思えない。どこかずっと遠いところで、彼らの影響力は途絶えたのだと、僕は思う。両親がその子供におよぼす影響力として、これ以上の正解はない。

『酒林』2019年9月号


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2020年5月4日 07:00
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