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食事も酒も論理でつながれている

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〈書評〉石田千著箸もてば

 題名の『箸もてば』とは、自分で作った食事を、さあ、食べるぞという瞬間、あるいは、いま食べているさなかのことだ。食事という論理の筋道の、ちょうど中間だ。

 物事には順番がある。順番とは、言うまでもなく、論理のことだ。順を追って論理の筋道にしたがわないと、うまくいかない。食事のための材料は、そのどれもが、論理を持っている。それぞれの食料品にもっともふさわしい調理のしかたが、その論理のなかにある。これを著者はじつにしなやかに見抜いて、いっさい逆らわない。

 そのように調理をするのは、著者というただひとりしかいない自分であり、その人の論理は正しい調理のしかたに合わせて、はみ出ることのないよう、そっと畳まれる。多くの場合、はみ出るのだが。はみ出るものが大きすぎると、ぜんたいは無様になる。これがこの著者にはまったくない。食料品が持つ論理と著者の論理は、ゆるやかに重なり合って、美しいひとつになる。その結果として、そのときどきの、著者が自分で作る食事が、そこにある。

 原点にあるのは、地元、というもののすべてだろうか。地元の大豆で作った豆腐を豆腐屋さんが早朝にバイクで届けてくれる。しっかりした骨格のある豆腐への信頼感は論理の筋道の出発点だ。

 米は自宅の前の稲田に実る。味噌は自分のところで作る。便利さに身を売らないかぎり、自分で作るほかない。なんでも作るよ、とその家の奥さんは言う。その奥さんの母も、おなじくなんでも作った。ひと冬ぶんの漬物を一家総出で大きな樽に仕込んだ。朝食に出てくるのはその漬物だ。

 いったいどこの話か、まるっきりの想像ではないか、と多くの人は思うだろう。著者はここに5日間滞在し、毎日おなじものを食べていっこうに飽きることがなかった。

 その気持ちはパリの朝に出会った人参の千切りサラダへと、なんの無理もなくつながる。千切りの人参にレモンとヴィネガー、そしてマスタード。少しの油であえて、香菜を散らす。さわやかでいくらでも食べられる。

 だからいつもの東京でも作ろうとするのだが、うまくいかない。千切りそのものに問題がありそうだ、と著者は思う。千切りのための道具を、見かけるたびに買う。そのどれもが、いまひとつうまくいかない。台所の棚の引き出しのなかに、うまくいかない千切りの道具がいくつも眠っているのを著者は見る。パリのあの店では、巨大な爪やすりのような道具で、女性が苦もなく人参を千切りにしていた。あの道具がどこで手に入るのか彼女に訊き、手に入れてくればよかったのに、と著者は思う。人参の千切りサラダを作るための千切りの道具は、人参の千切りサラダという論理の、おそらく出発点なのだろう。

 おなじ台所の冷蔵庫の上にはフランス製のマスタードの空き瓶がいくつもあるのを、著者は見る。空になると洗って冷蔵庫の上にのせておく。空き瓶はいくつにもなる。捨てられない、と著者は言う。マスタードを盛んに使う、という調理法の論理を守ってきた自分の証が、冷蔵庫の上にたまっていくマスタードの空き瓶なのだ。

 表紙の題名の下に絵がある。八百屋だろう。その下に巻いてある帯のまんなかに、題名と呼応して、「めし、おさけ。」とある。箸を持って食べるのは自分で作った食事であり、それは「めし」であり、「おさけ」がともなう。酔って、笑って、ひとまずはそこで終わるのだが、いろんな人たちと飲んだ酒とその笑いを、あるときふと、思い出す。

 脈絡なしに思い出しているかに見えて、じつはつながっている、と僕は思う。酒のなかにも論理がある。その論理でつながれている。

出典:『週刊朝日』2017年9月15日号


2018年6月11日 00:00