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ガールの時代の終わりかけ

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 僕が新卒の新入社員として、会社というものをかすかに体験した時代は、いつだったのですかという質問に対しては、とりあえず年号を答えればいい。しかし年号は単なる数字だから、その頃を知らない人にとっては、年号などなんの意味も持たない。それはどんな時代だったのですかという質問に、僕はどのように答えればいいのか。

 高度成長を背景に、オリンピックを基準点にしてすべてを語る、という方法がある。しかしこれも、語る人が語りたい内容は、じつはほとんど伝わらないのではないか。その時代をおぼろげにでも知っているなら、オリンピックという基準点は、多少は機能するかもしれない。知らない人にとっては、なにを基準にしても始まらない。

 あの時代を、僕というひとりの人からの視点で、なんとか説明出来ないものだろうか。僕はいろいろと考えてみた。僕にとっていちばん身近な視点が、なにかひとつあればいい。僕の視点が、僕以外のなにかを経由して、その時代をとらえればいい。そうすれば僕ひとりの視点だけの場合よりもはるかに正確に、そしてより望ましいかたちで、あの時代を見ることが出来るのではないか。

 僕は人だから、僕の視点が経由するのも、誰か人であるといい。当時の僕と、同年令あるいは同世代の、誰か。男よりは女性のほうが、信頼が置けるような気がする。僕はやがて思いついた。ガール、という存在だ。彼女たちをとおせばいい。大学を出た馬鹿な僕が、少しだけ会社を体験した頃は、日本におけるガールの時代の終わりかけの頃だった。

 ガールの歴史は大正時代までさかのぼる。その頃にはモダン・ガールと呼ばれた人たちがいた。これはガールの最初ではないか。洋髪にスカートをはけばモダン・ガールと呼ばれた、素朴な時代の人たちだ。昭和になるとエア・ガールがあらわれた。これはステュワデスだ。エア・ガールが空を飛ぶ人なら、地上にはバス・ガールがいた。このガールは、昭和四十年あたりまでは健在だったようだ。ガールという女性たちは、時代の先端をいく輝かしい存在として、出発した。そして彼女たちは、バスや飛行機のような職場を、基本的には持っていた。モダン・ガールも、いざとなればタイプくらいは打てたのではないか。

 戦後にはパンパン・ガールがいた。これも先端であったことは確かだし、パンパン・ガールとしての年月のなかには、ほんの一瞬にせよ、輝かしいときもあっただろう、と僕は想像する。パンパン・ガールの時代が終わると、日本はすでに経済の国になっていた。轟々たる経済活動の端っこのほうで、ガールたちは便利に使われる存在となった。

 ショー・ガール。マネキン・ガール。ヒット・ソングが言うような、「あのこに空似の」カレンダー・ガール。広がっていくいっぽうだった経済の間口にくらべると、ガールの種類は多くない。いまでも現役のガールは、キャンペーン・ガールくらいのものだ。同類にマスコット・ガールがいる。球場へいけば、ボール・ガールに会えるかもしれない。

 日本の経済活動は会社が担った。そしてその会社には、オフィス・ガールがいた。ガールはレディに代わってオフィス・レディと呼ばれ、OLと略されて現在にいたっている。ほんの少しにせよ僕は会社を体験したとは言っても、自分が配属された場所とその周辺しか僕は知らない。期間がごく短かったし、その短期間のあいだずっと、会社の仕事で多忙だった。

 昔の商社はタイピストを大量に必要とした。若い女性のタイピストが、ずらっとデスクをならべている一角が、ワン・フロアの大部屋のまんなかにあった。タイピスト・プールというやつだ。アンダウッドの大きなタイプライターを相手に、彼女たちは一日じゅう書類を作っていた。いまでもそうかと思うが、商社は膨大な量の書類を必要とし、それを生み出す。

 僕が体験した範囲内で言うなら、オフィス・ガールの筆頭は、このタイピストたちだ。庶務課や総務課へいくと、そこにも女性の社員はいたはずだ。大部屋にも総務があり、そこには四、五人の女性がいた。いま思えば、彼女たちもまた、オフィス・ガールだったのだ。いくつもの商談相手をめぐり歩くために外出するとき、都電で移動する経路を小さな伝票に書いてこの総務へ持っていくと、担当の女性が買い置きの都電の切符の束から、必要なだけの枚数をちぎり、新卒の僕に支給してくれた。都内をまだ都電が走っていて、この路線、あの路線と、消えていこうとしていた時代だ。

 大部屋のなかで天井まで囲いの壁があって個室のようになっていた部分は、いくつかの会議室と、電話交換手のいる部屋だけだった。外から代表にかけると交換台の女性が出て、希望するところへつないでくれた。そんな時代だった。もちろん、直通もあった。会社から外にかけるときには、外線は使わなかった。自分でいちいちダイアルをまわしていると、午後遅くには指先の皮がはがれるからだ。

 内線の受話器を取ると、「はい」と、交換台の女性が出た。電話をかけたい先を告げ、受話器を置く。しばらくするとその受話器のベルが鳴る。受話器を取ると、「お出になりました、どうぞ」などと、交換台が言う。そこでやおら、「もしもし」と、僕は言う。外からかかってきたときにも、受話器のベルが鳴った。取って耳に当てると、「カタオカさんに日銀からです」などと、交換台は言ってくれた。

 オフィス・ガールはオフィス・レディをへてOLへと変わった。見た目だけでも、これはたいへんに大きな変化だ。社会のなかでの彼女たちの位置が変化した。質も別なものへと変わったに違いない。オフィス・ガールとは、ひとつの範疇だ。明確に規定された領域だ。彼女たちだけに適用される枠であり、彼女たちはそれに守られていた。やや誇張して言うなら、彼女たちは別扱いをされていた。

 OLとなると、これもやや誇張して言うなら、もはや会社の備品でしかない。枠に守られた存在ではない。ユニフォームひとつで社内にばらまかれる備品だ。そのOLたちはいまも社内に存在している。会社はさまざまな備品を必要とする、ということなのだろう。

 キャリア・ウーマンは、このOLの進化したかたちなのだろうか。ガールはウーマンまでその位置を高めた、よかったね、という説を唱えたい人がいるかもしれないが、根拠は弱い。会社で仕事をしていくにあたって、男性ならただ会社員であるだけで充分なのに、女性がおなじようにしようとすると、キャリア・ウーマンでなければならない。キャリアもウーマンも、じつは手かせ足かせなのだ。商社マン、営業マン、証券マン、サンドイッチ・マンなどの、なんとかマンと対になった概念かもしれない。日本にウーマンはキャリア・ウーマンとウーマン・リブしかない。ウーマンのような基本語が、じつは日本では特殊語だ。

 僕の入った会社にもいたオフィス・ガールたちは、新卒にとっては思いのほか近よりがたいと言うよりも、まず理解しがたい存在だった。彼女たちは会社のなかにじつにあっけなく塗り込められた人たちであり、なぜそこまで塗り込められたままで毎日を生きるのかという疑問に、僕は答えを見つけることが出来なかった。

 入社してひと月ふた月という僕にとって、もっとも近い位置にいたのは、エレヴェーター・ガールという種類のガールだった。少しずつ消えつつあったけれども、当時はエレヴェーターにガールがいた。いつもエレヴェーターのなかにいて、ドアの開閉そして行く先階のボタンを押すことを、仕事にしていた。いまは絶滅したと言っていいが、百貨店にはまだいるかもしれない。もしいれば、百貨店がいかに特殊な世界であるか、ということだ。

 僕が入った会社は、本社から歩いて十五分ほどの場所の九階建てのビルディングに、三、四、五階と、三つのフロアを借りていたと記憶している。僕がいくべきフロアは四階だった。歩道から階段を上がり、押したり引いたりして開くガラスのドアを入ると、当時の感覚でのオフィス・ビルディングのロビー、つまりがらんとしてなにもない四角なフロアがあり、その奥にエレヴェーターがふたつあった。三つだったかもしれない。もし三つだったなら、左端のは通常は使用されていなかった。

 使われていたふたつのエレヴェーターのうち、ひとつは自動になっていたはずだ。そしてもうひとつには、いつもエレヴェーター・ガールがいた。一日の勤務時間を、ふたりの女性が交代で分け合っていた。彼女たちはその建物を運営する会社に雇われていたのだろう。

 高校を出てその仕事について二年ほど、という印象があった。ふたりとも美人だった。半端ではない量のセクシュアル・ハラスメントを、毎日のように体験していたのではないか。新卒の僕よりふたつほどは年下だったはずだが、ひときわ世智にうとい僕から見ると、彼女たちは世のなかをほぼ知りつくした、たいそう頼りになる人たちのように思えた。

 休憩時間に近くの喫茶店でコーヒーをつきあってくれたとき、テーブルをはさんで差し向かいになって最初の台詞が、「営業なんかやめなさいよ」というものだった。「なぜ営業の仕事なんかするの?」とも彼女は言ったし、「営業なんて馬鹿馬鹿しいわよ」とも言い、「営業なんて大嫌い」とすら言った。

 商社の営業の仕事そのものは、彼女は知らなかったと思う。会社勤めの男たちをエレヴェーターに乗せては、上へ下へと運ぶ回数が年間で二千回や三千回にはなる彼女が、その若い全身の感覚で感じ取った結論が、「営業なんて大嫌い」だった、と解釈すればいい。

 エレヴェーターの美人は、一杯のコーヒーを前にして、新卒の僕にあっさりと正解を投げたのだ。会社のすぐ外にあるエレヴェーターという位置から、彼女は会社の内部を観察していた。新卒の僕は厳密にはまだ会社の外の人だった。この意味で彼女は僕にとってもっとも近い人であり、ふたりは対等であるとさえ言えた。

 僕は自分の仕事を営業だとは認識していなかった。彼女に営業と言われて、そうか、僕は営業なのかと、かなり驚きうろたえた。日本製の主としてステインレス・スティールの平凡な板をヨーロッパに輸出するのが、僕の配属された部署の仕事だった。ヨーロッパの買い手から引き合いを受けるところから、製品を船積みするまでの輸出手続きのすべてが、僕にも仕事としてあたえられた。

 当時はまだ西ドイツと言っていたドイツが、盛んに団地を建設していた。僕を仲介者としてそのドイツが買ったステインレス・スティールの何枚もの板は、一枚ずつプレス機にかけられ、団地の流し台とその周辺へと、かたちを変えた。外国の買い手が国内のメーカーと直接に取引をするなら、商社の必要はどこにもないではないか、と思いながら僕は仕事をした。

 確かに営業だが、日本国内の現実通念としての営業とは少しだけ隔たっていた、と僕はいまも思う。しかしエレヴェーターの彼女にとっては、営業はとにかく営業でしかなく、それは大嫌いだったのだ。営業なんて大嫌いとは、サラリーマンはみんな嫌い、と言うのと等しい。その後、彼女はどうなったか。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 二〇〇〇年

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2017年9月12日 00:00