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純情だったあの頃のリンゴ

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 戦後、というと「リンゴの唄」だ。昔の日本人の心のなかで、両者は一本の線で結ばれている。心のなかと言うよりも、いわゆる一般常識のなかでは、と言ったほうが正確かもしれない。「敗戦後のなんにもない虚脱状態の日本人たちの胸に、明かりを灯し明日に向けて勇気づけてくれた歌」などと解説をつければ、一般常識では満点だ。

「リンゴの唄」については、かねてより僕は不思議に思っていた。かねてよりとは、同時代的にその歌が幼い僕にも届いていた頃からずっと、という意味だ。一個のリンゴに、明日に向けて全国民を勇気づけるほどの大役を、引き受けることができるものなのか。歌詞は、リンゴは可愛い、と言っているだけだ。曲そのものに対しても、どことなく釈然としないものを僕は感じてきた。どこかで、なにかが、ぴったりこない。なぜこの歌が、それほどまでに。

 この歌も映画の主題歌だったということを、僕はずっと知らずにいた。『そよかぜ』という映画の主題歌だ。平成三年の夏、終戦記念日の商品として、『そよかぜ』はヴィデオで発売された。僕はそれを買い、残暑の夜に見た。歌を歌った当人の並木路子が主演していた。たいそう若い上原謙や佐野周二たちを、画面に見ることができた。

『銀座カンカン娘』とおなじく、これを一本の娯楽映画作品と呼んでいいものかどうか、判断に苦しむというような出来ばえだ。しかしひとつだけはっきりと言えるのは、登場人物たちがおそろしく純情だ、ということだ。『銀座カンカン娘』も純情だが、『そよかぜ』は時代的にさらにその前であるため、純情度においては『銀座カンカン娘』を軽くしのいでいる。こういう純情さを、いまの人は笑うだろう。その笑いは、まったく純情などではない自分たちに向けた笑いだ。

 一軒の劇場がある。そこで照明係をしながら、並木路子は歌の修業をしつつ、スターになることを目ざしている。その劇場の人たち、周囲の人たち、そして劇場の楽団員たちに盛り立てられ、彼女はスターになっていった、らしい。なにがどうなったのか、僕にはよくわからなかった。

 なにを描きたいのか、ぜんたいにわたって、はっきりしていない。そのかわりに、すべてはおっとりしている。せこいところがまったくない。もちろん、なににも媚びていない。そのような純情可憐な世界である『そよかぜ』を見ていて僕にわかったのは、「リンゴの唄」は労働歌だということだった。日本を再建するために、さあみんなで力を合わせて働きましょう、と働くための元気づけの歌だ。

 働くしかなかった。だから人々は働いた。全時代的に、全国民的に、「リンゴの唄」は、その労働のためのテーマ・ソングとなった。僕にとっての謎は解けた。釈然としない、と僕がかねてより感じていたのは、一個のリンゴの可愛さと、日本再建の労働との、重なり合いだった。

 働くとは、国を挙げてゼロからの出発だった、と一般には言われている。しかし正確にはゼロなどではなく、敗戦直後の日本には平常時で四年分の備蓄があったという。それは企業に放出され、企業はそれを巧みに利用し、自分たちの再建の最初の土台にした、という話を僕はどこかで読んだ。

 しかし普通の人たちにとっては、再出発はゼロ以下からだった。そのゼロと正しく呼応するものとして、純情さのきわみのような純情さを、彼らは持っていた。「リンゴの唄」は、そのような純情さの歌だった、と言うべきかもしれない。

 立ちなおって次第に力をつけ、その力がある線を越えて上昇するようになると、かつて自分たちが持っていた純情さは、大衆にとって不要なものとなった。そのとき初めて、敗戦後のどん底のなかで日本人の心に明かりを灯してくれた歌、という言いかたが一般常識の正解として成立していく。

底本:『音楽を聴く』東京書籍 一九九八年

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2017年8月22日 00:00
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