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ご飯のおかずが、ご飯

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「こうしておいしい料理を次々に食べて、ワインの酔いもほどよくまわってくると、頭のずっと奥の片隅に、気がつくとふと立ち上がっているのは、学生時代の記憶なんですよ。そういう年齢にさしかかってるのかなとも思いますけど、学生時代の記憶とは、とにかくいつも腹がへっていて、おかねがなくて、食うや食わずでなんとかしのいだ、ということの記憶ですからね。食欲というたいへんな欲望と直結した記憶でもあるわけで、いまみたいにおいしい料理を食べてワインを飲んでいて、これもまた食欲だとすると、対極にあった学生時代の食欲について、思い出すのかもしれませんね」

 僕の向かい側の席でそう言った彼は、僕よりも七歳年上の男性だ。一九三四年に生まれ、大学に入学したのは一九五三年のことだった。そして一九五七年に彼は大学を卒業した。「もはや戦後ではない」と、日本政府が経済白書のなかで宣言したのは、一九五六年の出来事だ。その次の年に大学を出た彼は、まだ充分に戦後だった時代に、大学生としての四年間という青春を過ごした。

「カタオカさんの先輩ですよ、僕は。おなじあの大学の入試を受けて合格し、九州の草深い田舎から上京して来て、学校のすぐ近くのアパートのひと部屋に住んだのです。四年間ずっとおなじ部屋でしたよ。他のところへ引っ越しても大同小異だろうし、僕はややものぐさでしてね、学校の近くでアパートのひと部屋なら、それで充分だという気持ちもありましたし。田舎から東京に出て来て大学生をやるなら、その生活ぶりはこういうものなのだ、と最初からすべてを受け入れてもいましたね。ランブルという喫茶店の、学校から来て手前を左に入って坂を上がり、右へ曲がってすぐに今度は左に曲がり、おなじく坂を上がっていく途中の、左側の木造二階建てのアパートです」

 彼が僕にこういう話をしたのは、いまから十五年くらい前のことだ。この話をしたすぐあと、彼から電話があった。あのときの話に触発されて懐かしさがつのった彼は、そのアパートがまだあるかどうか見にいったという。ありましたよ、まだあるんです、ちょっと驚きましたけど、昔のまんまなんですよ。懐かしいのは確かで、胸に去来するものは少なくないんですが、青春の亡霊を見てるようで、気味の悪い思いもしました。あらゆる部分が昔のままなんです。入口なんか、ちょっと入ってみたら、昔とおんなじ匂いがしましたよ。先輩は電話でそんなことを報告してくれた。

「箱みたいな部屋でしたよ。ドアを開けると畳半分の沓脱ぎがあって、それも含めて六畳かなあ。もっと狭かったような気がしますね。片方は襖で、なかは押入れになっていて、もう一方は壁です。正面が窓で、窓を開くと窓枠に腰かけることが出来ましてね。鉄の細い棒で細工した手すりがついてて、そこに手拭いを干したりするんですよ。それだけの部屋です。トイレは共同、炊事場は廊下に出た斜め前にありましてね。洗い場があって、その片側にガス・コンロが四台あったかな。反対側はなにもない平たい部分で、調理台ですね。そこに七輪を置いて煮炊きをしてる人もいたなあ。七輪は使い終わると、自分の部屋に持って入るのです。置いたままにしておくと盗まれますからね。鍋や釜、食器などもそうです。ですから人が使ってないときには、そこにはガス・コンロがあるだけで、他にはなにもありませんでした。たわしが一個、転がってたかなあ。四年間ずっと、おなじたわしです」

 いつも空腹だった自分が、いかにしてその空腹を満たしたか、というよりも誤魔化したかという、青春の食欲について語るためには、彼は四年間住んだアパートのひと部屋について、まず存分に語らなければならなかったようだ。

「その部屋に住み始めた頃の僕が持っていた炊事道具そして食器は、はんごうひとつでしたよ。これはよく覚えてます。太平洋戦争の大敗戦からまだ十年たってない頃に大学に入ったのですから、まだ飯盒なんか田舎では身辺にごろごろしてましたよ。田舎を出るとき、この飯盒に飯とおかずを詰めましてね。東京へと走る汽車のなかで食べましたよ。だから飯盒だけは最初からあったわけです」

 飯盒とは、アルミニウム製の、炊飯を兼ねた弁当箱だ。腰に下げたときに体になじむよう、本体は微妙に湾曲している。深くはまり込む蓋があり、火にかけるときの持ち手ともなる針金製の四角い把手が、本体の側面から蓋を越える高さで、取り付けてあった。戦場では歩兵たちの必需品でもあった。

「箸はさすがにあったなあ。飯盒と箸ですね。食卓なんてありません。米だけは米屋で買い置きしておいて、飯盒で炊くのです。僕は飯盒で米を炊くのがうまいんですよ。あのアパートの部屋で、飯盒に炊いたご飯を最初に食べたときには、外の炊事場で鰯を七輪で焼いてた人がいた、その芳ばしい匂いをおかずにして、飯盒のご飯を食べましたよ。忘れもしません。人が七輪で焼いていた鰯の匂いが、おかずだったのです。一九五三年の春です」

 醬油差し。味の素の小瓶。ソースの瓶。塩の入ったガラスの小瓶。七味唐がらしの入った赤い小さな筒状の容器。湯飲み。こういったものを、学校の近くの食堂や蕎麦屋などから、ひとつずつくすねて来ると、飯盒と一対の箸を中心にして、食卓の風景らしきものが次第に整っていくのだった。

「ただし食卓はないんですよ。八百屋で蜜柑箱をふたつ、格安で譲ってもらって、それを窓ぎわの畳の上に左右に置いて、勉強机の天板だけを古道具店で買って来て、左右の蜜柑箱の上に渡しましてね。蜜柑箱の高さが微妙に違うので、天板は片方へ斜めになってました。パチンコの玉を転がして、どっちが先に天板から落ちるか、という馬鹿みたいな賭をして友だちと遊んだり。皿を一枚、そして茶碗をひとつ買ったのを、覚えてます。都電の停留所のなかに茶碗屋があったでしょう。あそこですよ。小さく欠けたりひびが入ったりして、まともには売れないものが、店の前に箱に入れて出してあって、当然のこととしてたいへん安いわけです。割り箸はいつもたくさんありましたね。店から持って来るのが簡単ですし、焚き付けになるんですよ。焚き付けは知ってますよね、カタオカさん」

 七輪に炭火をおこしたりするとき、いきなり硬い炭に火をつけるわけにはいかない。新聞紙を丸めて七輪の火底に置き、その上にふたつに折った割り箸を何本も交差させて重ねる。その上に炭を載せる。新聞紙にマッチで火をつける。よく燃える。その火が割り箸に移り、何本もの割り箸が盛んに燃えると、炭の一角に火が移って赤くなる。その赤い一角が炭ぜんたいにおよぶようにすれば、七輪のなかに炭火がおこる。

「フライパンはついに持たなかったですねえ。おなじアパートに住んでた友人のフライパンを借りてましたよ。その男から最初にフライパンを借りたときのことは、いまでもそのまま記憶にあります。僕がフライパンを借りにいったら、そいつは野菜炒めを作ったばかりだったのです。作ったばかりだけど野菜炒めは食べてしまってもうなくて、僕はそのフライパンを借りたのですが、そいつが野菜炒めを作ったときのラードが、フライパンの周囲に残ってるわけです。野菜といっしょに肉も少しは炒めたらしく、ラードで炒めた肉のいい匂いがしてるわけですよ。だから僕としては、飯盒のなかの冷たいご飯をそのフライパンで炒めて、肉野菜の匂いつきラード炒めご飯を作り、醬油をかけて食べました。うまい、と思いましたよ。御馳走です」

 彼がその大学の学生だった頃、文学部があった建物の地下ないしは半地下のようなところに、小さな食堂があった。僕の頃にもあった。パンや牛乳、ヨーグルトなどを売っていて、テーブルと椅子もあったからそこで食べることも出来た。この食堂でヨーグルトを食べるときに使うスプーンを一本、失敬して来てそれが彼の部屋では万能の小匙として活躍したという。

「大匙は学校周辺の店でカレーライスを食べたとき、隣のテーブルからひょいと一本を手に取って学生服のポケットに収め、連れて帰ればそれでいいわけです。何本もあってもしょうがないので、四年間をとおして小匙も大匙も、一本ずつでしたね。この大匙がね、カタオカさん、重要なんですよ。なぜかと言うと、飯盒に飯を炊くでしょう。そのとき、もうちょっとで炊き上がるというとき、飯盒のなかのご飯を大匙に一杯、すくい取るんです。その生炊けのご飯を飯盒の蓋に入れて、そこに醬油を充分にかけ、それを火にかけて煮るのです。生炊けのご飯を醬油煮にするわけですよ。これをおかずにするんです。おかずになるんじゃなくて、おかずにするんです。すっかり醬油煮となったご飯を、飯盒の蓋のなかから箸でつまんでは口に入れ、そこへ飯盒のご飯を入れていっしょに嚙めば、ご飯をおかずにしてご飯を食べる、ということが出来るわけです。醬油を小皿に出して、箸の先にちょっとつけてはご飯を食べる、という古典的な方法があるのですが、それのヴァリエーションのひとつだと言ってもいいでしょうね」

 麻布のイタリー料理の店に、このときの僕たちはいた。僕と彼のほかに、男性と女性がひとりずついた、と記憶している。上出来の料理を食べて、僕たちの誰もがいい気分だった。彼はひときわ上機嫌で、そのせいもあったのだろう、ワインが進んだ。

「僕ひとりで飲んでますけど、これで三本目ですよ、カタオカさん。こんなおいしい料理を平らげながらワインを飲んで、それがいまでは当たり前みたいになっていて、素晴らしいことではあるけれど、もはやなんとも思わないごく普通のことでもあって、そういうかたちでの食欲の満足が片方にあると、もう一方ではいま喋ってるような学生時代の貧乏体験が、なにかこう輝かしい貴重なこととして、頭の奥の片隅に立ち上がってくるわけですよ。なぜあんなに貧乏だったのですかね。いつも腹がへってて。三年生の年の暮れには七輪を買いましたよ。田舎へ帰るのは夏休みだけでしたから、師走から正月にかけて、ある程度の用意が必要だったのです。年末も正月も、店はみんな休みましたからね。歳末大売出しの商店街の荒物屋で、七輪を売ってたのです。たいへん安い値段で、泥棒値段、とうたってあったのをいまでも覚えてます。それを買って部屋へ持って帰り、炭を用意して、薬罐も買いましたからね。小さな金色の薬罐です。正月にひとりで部屋にいて、七輪にはまっ赤に炭火がおきていて、薬罐がかけてあって湯が沸いていて、熱いお茶が飲めるんです。これは豪華だなあ、とつくづく思いましたね。隙間風だらけの安アパートですけど、七輪に炭がまっ赤になってると、一酸化炭素が充満しますから、窓をちょっと開けて。吹き込んで来る寒い風に対して、七輪に炭火、そして薬罐にお湯ですよ。熱いお茶をすすりながら、鉄火巻きに醬油をちょっとつけては、次々にいつまでも食べることを夢想したりしてね」

底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 二〇〇五年


1950年代 『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』 大学
2017年8月21日 00:00
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